水の宴

『水の宴』 中上紀
全部読んでないのでイリーガルなんだけど、感想だけでも・・・。
中上健次の娘さんである。どんなものを書いているのか、まったく知らなかった。今回初めて読んだ。
短編集だったので、全部は読んでない。最初のやつを読んだ。舞台はネパールのポカラ(書かれてはいないけど)。退廃的な若い旅人と、現地の若者の交流と、ハシシと、セックスと、えぇとあと何だっけ。
イタいな。正直なところ。
出てくる人間がみんなヤスとかノブとかといった単純な偽名なんだけど、それが日本人なんだかネパール人なんだかわからない。この会話が日本語そのものなのか、それとも翻訳された日本語なのかがわからなくて、ただそれだけで読む気を半分なくした。
旅をしたことがある人なんだろう。ほかの作品もぱらぱら斜め読みしたけど、みんなアジアのどこかが舞台で、そこを旅するほかない日本人が主人公。
だけど、そっから先がなぁ・・・・・・。
唯一、うっ、と思ったのは、この短編の主人公の弟が、妹と寝る、ってくだり。
私は中上健次のよき読者ではないけれど、それでも彼がこの「妹を犯す」というモチーフを執拗に書いていたことは知っている。『地の果て至上の時』も確かそうじゃなかったか。
うーん、どう生きようと中上健次の娘。
やはり抜けきれないのか、熊野の因習からは。
アジアに逃げて行ってるのに。
★★☆☆☆ 星2つです
この時代、純文学はむずかしいな。
■■追記■■
いかん。書評とはホメるものだという師の教えを破ってしまったのだ。慙愧の念に耐えかねて、深夜、もうちょっと読んでみた。
するとだね、星2つってことはないな、と。
ダメなんだなぁ、アジアが舞台のこの手の小説は、私の個人的な履歴による拒絶反応がすごく出てしまう。フィクションに徹してくれていれば(たとえば篠田節子のように)、何のわだかまりもなく読めるんだけど。こんなふうに心象風景っぽく、あるいは純文学っぽく、アジアを旅するふうらふらで何もないうすっぺらの自分を語られると、つらいという気分が第一に来てしまう。
ということがよくわかった。
でまぁ、純文学ってほんとにムズカシイな、ってところに落ち着いた。
私が中上健次の『枯木灘』や『地の果て至上の時』や『十九歳の地図』なんかを読めたのは、読まざるを得ない迫力がそこにあったからだし、自分の方にも、読まざるを得ない何かしらの理由があったからだ。中上健次って、あのころの自分にとっては、読まなければいけない、理解しなければいけない、作家の1人だったから。誰にそう言われたわけでもないけど、とにかくそうだった。
中上紀のこれらの作品だって、そうひどいってわけじゃない。これが芥川賞を取ったって、驚かない。特に昨今の芥川賞受賞作品に比べれば、こっちのほうが上かもしれない。少なくとも日本語として、首をひねるような箇所はなかった。
じゃあ、何なんだって、自分でも何を書いているのかわからなくなってきたぞ。
この小説。今の自分には面白くなかった。もう面白い小説しか読みたくないと思っている自分には。自分にとって、今は純文学を読む時代じゃない、ってことなんだろうと思う。
ただ、ざっと読んでみて思ったのは、こういうことを思われることがいちばん嫌かもしれないんだけど、やっぱり中上健次の子どもなんだなぁ、ということ。どこか似ている。居場所がなくてやりきれないって感じとか。お前らそんなにお上手に生きてんじゃねぇよ、って感じとか(あくまでも私の受けた感じ)。
というわけで、久々に中上健次のことなんかも思い出したわけなんだが、『地の果て至上の時』が本棚に見当たらない。単行本で買ったのに。新刊の時に。どこ行っちゃったんだろうな。
★★★☆☆ 星3つに訂正
ご尊父と比べてしまい本当に申し訳ない

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