ケルサンのこと(旅行記のおまけ)

今回、ラダックに出かけるにあたっては、3つの大きな目的がありました。

1つは、念願だったザンスカール地方へのトレッキング
次は、こちらも念願の6000m峰への挑戦
最後に、25年前に出会った亡命チベット人ケルサンを探すこと

今日はケルサンのことを書こうと思います。

 チャパティをこねるケルサン
1993.9

25年前の9月、ラダックを旅しました。
その時は、ダライ・ラマさんにインタビューするという仕事が入り、せっかくインドに行くのなら仕事の前にラダック~ザンスカールをトレッキングしたいなと思って出かけたのでした。
実際に向こうに着いてみると、雪がもう降っているのでザンスカールは無理だと言われ、ラダックのマルカ谷というところを歩く9日間のトレッキングをすることに。
いま思えば、雪が~、というのは嘘だったかも!
ザンスカールは行くのはいいけど、帰ってくるのがすごく大変。人間だけなら車を乗り継げば帰れるけど、馬も行ってしまうと同じ道を戻らないと。それは大変だよね・・・。
結果、マルカ谷でも十分楽しかったので今となってはどうでもいいです。

その時にアレンジを頼んだのは、ゲストハウスの主人でした。当時、レーの町に旅行代理店なんてあったかな・・・? 記憶にはない。
主人が紹介してくれたのが、ケルサンでした。
事前には会わなかったと思います。当日、車で出発地のスピトクまで連れて行ってもらい、そこで馬と共にご対面。馬は2頭だったかな。3頭いたかな。途中まで一緒にケルサンの弟と馬数頭、そしてスイス人のカップルと歩いて行きました。とはいえ行動中はまったく別々で、キャンプ地が同じってくらいでしたが(私たちが遅かったせいかと)。

 ケルサンのテントの中

私たちはドーム型のテントを持っており、ケルサンは簡易な布テント、でもけっこう広いやつを持ってきていました。炊事もこのテントの中で。ケルサンは何でも作れる名コックでもありました。
これは何かスープのようなものを煮ているところで、投入するスパイスの量についてわたくしと揉めているところです(笑)
朝はチャパティとお茶。昼はヌードル。夜は何だっけ? カレーとか、野菜炒めとか、チョウメン(焼きそば)とか。

トレッキングが終わった後、ケルサンに誘われて自宅に遊びに行きました。
チベット人亡命キャンプの中にある家でした。バスに乗って行き、帰りはトラックをヒッチしてダンプの荷台に乗って帰りました。亡命キャンプとはいえテントのわけではなく、みんなちゃんとした家でした。

 ケルサン一家
左から長男、次男、ケルサン、長女、弟の娘、長男の奥さん、奥さん

いや~~~、暗い写真だ。

実はケルサンは英語をほとんど話せません。昨日も今日もトゥモローだし、自分のことはなぜかマイだし。でも、なんとかかんとかギリギリ通じる(というかお互いにエスパーしあう)ことは通じました。川、渡る、行く、お前、俺。彼が言えたのはこれくらいだけど。

家に行くと、長男のお嫁さんと、弟の娘さんが英語を話せたので、ケルサンの話はほとんどがこの二人から聞いたことになります。
彼は西チベットの遊牧民で、ダライ・ラマが亡命した後を追って自分も亡命。なんと言っても西チベットからインドはすぐですから。もちろんそのルートで越えられたかは不明だけど。
亡命後、ケルサンはインド軍に入ったのだと思います。あるいは、亡命チベット軍なのかもしれない、このへんは今回聞いた話と矛盾があってどちらかわからないです。25年前はインド軍と聞きました。
そして落下傘降下部隊に所属し、対パキスタン戦争の時に降下して負傷し、除隊したそうです。わずかに足に後遺症が残りました。除隊後は亡命キャンプに戻り、トレッキングの馬方などをしながら家族を養っていました。

 これまた暗い!

一泊してお別れするときに、カター(チベット仏教的に大事なもの、貴人に捧げたり、友人と分かれる時に贈ったりする)をもらいました。
左端に写っているのは、ケルサンの奥さんのお父さんだそうです。

料理するケルサンと長女、このとき13歳だったと思います。

 

ケルサンのことは、本を書いたときにダライ・ラマさんとほぼ同じ分量を割いて書かせてもらいました。雑誌が出たとき、本が出たとき、それぞれそれを郵送し、ページの間にドル札を挟んで、ダメかもしれないなと思いつつ送ったのも思い出です。いずれの時も奇跡的にケルサンの手元に届き、「ちゃんと受け取ったよ、ありがとう」と、おそらくは長男嫁の代筆で手紙をもらいました。

すぐにまた行くつもりだったのですが、その後、私自身の生活がややこしいことになり、そうこうするうちに軽井沢で商売を始めてしまったので、夏に旅に出ることが無理になり、そうして流れた25年という年月。
ウメが昨年亡くなり、ここでの商いも縮小気味なので、思い切って行くことに決めたのが今年の早春。ケルサンに手紙を出しましたが返事が来ません。よくよく調べてみると、ラダックでは2010年に大きな洪水があり、その時に最も被害を受けたのが亡命チベット人居住区のチョグラムサルだったとか。ケルサンの住所もチョグラムサルでした。

これは・・・・・・。
ケルサンの家も被害にあい、それで手紙が届かないのではないか。
もしかするとケルサンの家族も離散しているかもしれない。
最悪、全員が亡くなったということもありうる。

そう思いながらの、今回のラダック行きでした。

長いけど続けますね。

チョグラムサルに行くには、レーの町のはずれからミニバスに乗って行きます。その乗り場がわからずに立っている人に声をかけると、ここがそうだと。そしてそこからは、他の場所に行くバスも出るから、間違えるなと言われました。

 バス駅への道

 バス駅近く
この近くからチョグラムサルなどへ行くバスが出る

その時私は、ケルサンからもらった最後の手紙を持っており、そこには彼の住所が書いてあるわけなのですが、気になることがあってその人に尋ねてみることに。
「この住所なんですけど、チョグラムサル、と、アグリン、と書いてありますよね? アグリンとチョグラムサルは同じ場所ですか?」
「いえ違う、逆方向になるわよ。これではどちらかわからないけど・・・」
そこへ来たのがアグリン行きです。一か八か、最初にアグリンに行ってみることにしました。

バスの終点まで行き、あとは人に聞きながら聞きながら歩いていきました。
どうやら、ケルサンの家はチョグラムサルではなくアグリンにあるようです。

 アグリンの町外れ

最後に聞いた雑貨屋の店主が、なんとケルサンを知っているとのことで電話をかけてくれました。そして、「ついてきなさい」と、案内してくれることに。

でも、道すがら、

「ケルサンは亡くなったよ、今年の5月らしい。ケルサンの娘がそう言ってる」

と、聞かされました。
細い路地をたどっていった先に、ケルサンの家がありました。見覚えはありません。こんなに細い路地にあったとも思えません。町並みはすっかり変わっていました。
路地と庭の間にも扉があり、そこを開けると中に数人の人が待ってくれていて、ケルサンの長女と奥さん、そして孫であろう子供たちがいました。

ケルサンは、今年の5月に86歳で永眠したそうでした。
最後の2ヶ月は寝たきりの状態だったそうで、大変だったろうなと。病院には入らず、自宅で家族に看取られたそうです。それはそれで、よい最期だったのではないかと思いました。
ケルサンの奥さんはまだ歩ける状態で(年齢も71歳のはず)、元気でした。娘一家と共に暮らし、水害の被害もなく、ひとまずは安堵しました。
娘婿さんが失業中で暇だというので、一緒にザンスカールのトレッキングに行くことにしました。ケルサンが存命であってもなくても、家族に何かしらのことをしたいと思っていたので、そういう展開になってよかったです。

 ちょっと変な色だけど・・・

左端が私で、その横がケルサンの奥さん、長女、その子どもたちと旦那さん。娘婿さんも亡命チベット軍上がりの元兵士です。
娘さんには面影がぜんぜんないなぁ、やはりこの高地で暮らすのは厳しいことなのだろうと思いました。

 ケルサンの一番いい写真

もし、ウメが亡くなってすぐの時期にでも出かけていれば、ケルサンに会うこともできたし、彼の最後の1年に対して何かしてあげられることもあったかと思います。軽くて暖かい布団とか、そういうことですけど。
でも、そんなことを言ったってしょうがない。ケルサンの家族に会うことができて、最後の日々を聞くこともできた。ガイド料としてお金も置いてこれたから、奥さんのために何か使ってくれるだろうと信じてます。

ケルサンは、真実誇り高き男だった。強くて、やさしくて、茶目っ気もあって、そしてぐちゃぐちゃ言わない男。彼の英語力であったとしても、言えたはず、言いたいと思ったなら言えたはずです。チベットはひどい目にあっている、自分もひどい目にあっている、中国はひどいよな、(だからそんな俺に何かしてくれるよな)、と。
でも彼は一度も、10日以上彼と一緒にいたのに、一度もそんなことを言わなかったし素振りも見せなかった。
だから大好きだった。

ケルサンが、おそらく70歳前後の頃に、チベットとの国境に出かけていって向こうにいる兄弟と対面した時の写真を見せてもらいました。
チベットとの国境・・・・・・。
国境線があるのは知っているけど、いわゆるゲートがあって公式に行き来できる国境がラダックにあるのかな? もちろん第三国人に対してはありませんが、彼らだけのそういうものがあるんだろうか。わからないけれども。
風景としては明らかに西チベットの荒涼たるものでした。そこに、ケルサンが兄弟と並んで立っている。
ケルサンは、チベットの伝統的衣装であるチュバを着て、これまた伝統的に皆そうしているように右袖を抜いています。中には真っ白なシャツ。足元はチベタンブーツ。
かっこよかった。
ズボンにセーターのケルサンしか見たことがなかったから、本当にその姿はかっこよく、凛々しかったな。写真、写させてもらえばよかった。

今回の旅は、いろいろな意味で自分にとって一区切りになる旅だと思って出かけましたが、ケルサンの家族に会って、一つの区切りとなりました。長いこと、ケルサンのこと、ラダックのことは折りに触れ思い出していたし、手紙の一つもと思いながらなかなかできなかったので。
あらためてケルサンに感謝。彼は私のチベット歴の中で、きらきら光る星だったなと。もう一つ光る星があって、それは法王さんです。法王さんとも今回ちょっとしたエピソードがあるんだけど、それはまたいつか。

ではまたです

 

ちょっとめまいが

うーん。
さすがに疲れたんだなぁと思います。
1週間経って、ようやくお腹は収まりつつありますが(お粥&雑炊生活中)、めまいは帰国後から少しずつ出たり消えたりしながら、今日はちょっと強めです。夕食後に一応特効薬の酔い止めをのんでみました。

そんなわけで写真を見るのはつらいので、記録の方は先延ばし。

今回の旅を終えて帰ってきて、上記以外で体の変化がいくつか。

やせました。それも、帰国して数日後に5キロマイナスに行きました。
向こうにいた間はそれなりに食べていたせいですね。
登山でもっとやせるかと思ったんだけど、夫によるとB.Cでもモリモリ食べていたそうなので。B.C4980mですけどね(笑)
ガイドが「食べてください!」と言ってたせいもある。スタミナ大事。

五十肩がだいぶよくなりました。
これにははっきりと理由が。
トレッキングや登山中、何度か、滑落してみたり、危険な場所の通過があったりし、そのときに、どうしても右腕を引っ張ってもらわなければならない状況がありました。「右は五十肩だから左でお願いします」とは言えない、物理的に無理な状況。ぐいぐい引っ張られ、その時は痛かったけど、あとになったら可動域が広がったという。
これは・・・、怪我の功名でした。

一時期収まっていた更年期の症状が復活しました。
著しいのはホットフラッシュです。
かなり過酷だったので、刺激になっちゃったのだと。

生きているからいろいろある。
ぼちぼち元気になっていきたいです。
みなさんも夏の疲れが出ませんように(まだ夏か・・・)
ではまた

ラダック・ザンスカールの旅その1

リアルタイムではもう帰国していますが、思い出しながら旅の模様をお知らせしようと思います。
台風が去って、天気も回復傾向でしょうか?
軽井沢はまだ雲が多く、ときどき風も出ています。
では旅の様子をどうぞ。

 

ラダック・ザンスカールの旅その1

2018年7~8月にかけての5週間、北インドを旅行しました。
これからしばらくの間、この旅行の記録をアップしていきます。
まず初回の本日は、日本を出てからラダックの都・レーまで・・・

最初にまずはラダックの場所を。
こんな感じの場所にあります。赤いマークが見えるかどうか不明ですが、見えていたらそこがレーの位置。見えていなかったら、「ジャンムー」の文字のすぐ右横がレーです。
インドの最北端に位置し、パキスタン、中国チベット自治区と国境を接し、というか国境が確定されてなくて未だにモメているエリアです。

 

成田から北京経由デリー


北京空港のラウンジ。今回は中国国際航空のビジネスを使いました。
帰国時の荷物許容量がすごく多いので、現地から発送することなど考えるとビジネスがいいかなと。あと、帰国時は絶対に体調を崩していると思ったので、楽できるように。

機内サービスは普通です。特にすごくいいわけでもなく、悪いわけでもなく。
本当に一般的なビジネスクラスのサービスだと思います。
食べ物もおいしかった。お酒は飲まなかったのでわからないけど・・・。


デリーのごった返す(でもないか)、ターンテーブルのところ。
行きはすんなり、さっさと出てきました。

デリーに着いたのは深夜の2時前だったかな?
遅延もなく安心しました。
乗り継ぐGO AIRは5時40分発、そうとう時間があるのでまずは国際線のターミナル内で休みました。外に出てしまうと椅子はほとんどないので、メトロの始発を待つなら出ないほうがいいのかもしれないです。外に出たところにも、時間調整の人はたくさんいて不安はありませんでした。

デリーからレーへ


翼を上げて~

GO AIRもほとんど遅延なく飛びました。ターミナル2はターミナル3からすぐ近く、カートを押して歩いていけるところにありました。


雲海と山のてっぺんがちらちら見えています。
ヒマチャルプラデシュか、既にザンスカールに入っているのか・・・。


雲が切れてきて、下界が見えてきました。
見渡す限りの荒涼たる高地と、そこから聳える山、山、山。
あぁ、ヒマラヤ圏に来たんだな~と、実感する瞬間です。
画面中央あたりには大きな湖も見えていますね。

着陸する直前、レーの空港付近です。
丘が見えていますが、スピトクかな?
25年前にはこのスピトクからマルカ谷へのトレッキングを開始しました。なつかしいな。

レーの町並み

レーの空港では、入境書のようなものを1枚記入します。
空港から町へはタクシーで。一律350ルピーでした。
タクシースタンドまで行ってもらい、そこから歩いてゲストハウスを探しました。
ずいぶん歩いた、荷物が重くて大変だった。1泊目の宿は予約していったほうがいいかも(笑)。
わかっちゃいるんだけどね・・・・・・。

宿はライブラリーロードからちょっと横道を入ったところにある、SHINGEIの宿に。
たまたま1軒の宿に聞きに入って、満室と断られて出てきたところを、2階から手招きされました。ちなみに宿の名前は別にあるのですが、ここの管理人(マネージャー?)がネパリで、Shingeiっていうんです。で、すっかりホテルshingeiに(笑)
1泊1000ルピー(1800~1900円くらい)。
いや高いですね~~~。びっくりです。
でもレーはどこもこんな感じ。探せば800台とかもありましたが、wifiがないとか、まぁいろいろ。Shingeiが憎めないヤツだったので、結局レーではずっとここに泊まりました。


Shingeiの宿の門前で寝る犬

 旧王宮を見上げるメインバザール
こんなふうに整備された公園のようになっていました。ホコ天ですね。


夕方、涼しくなると人が湧いてきてこの賑わいに。ツーリストも、ナンパしようとしてる若い子たちも、坊さんも、ごっちゃごちゃです。


小道の牛。車の通れない路地があちこちにあり、うまく使えると便利。


もうシーズンに突入してるというのに、どこもかしこも建設ラッシュでした。
とにかくホテルを作ってました。
そんなに作って大丈夫かいな・・・?
足場が木の棒で縛っただけ!

 あちこちで見かけた綿糸
手紡ぎの綿糸に見えるのだけど、これを何に使うのだろう?
木綿を織るって、この地域ではあまりないことに思えるのだけど。どっちかというとウールなんかを織っているイメージ。


食べかけちゃってますけど^^;
最初の食事、Shingeiおすすめのラマユルレストランで。フライドライスとトゥクパ(麺)。
このレストラン、2~3回行ってそこそこよかったんだけど、最後に行ったときにネパリの店員がチップせびってきて、以後行かなくなりました。
インドでチップは基本的にない。けれど欧米人たちが広めたので、旅行者が利用するような場所では支払うことも多いです。多くはお釣りの一部を置いてくる感じ。ただしそれは、こちらの気持ちであって、要求されるものではないと思うのでね。
ネパリはあちこちで働いていますが、調子に乗ってるのもいるのでそのへんは・・・。

レーの標高は3600を少し割り込む程度です。
つまり、富士山の山頂とほぼ同じです。
さすがに血中酸素濃度は・・・、私は初日はまったく下がりませんでした^^;
夫はいきなり80台前半まで落ちましたが、私のほうが反応が遅いのかな。
町中の薬局で一応ダイアモックスを入手。夫はしばらく服用しましたが、私は数回でやめちゃった。高度障害は今回ほとんど出なかったので。
もちろん、ほんのわずかの傾斜の坂道を歩くだけで「ゼーハー」なりますけど、頭痛などは起きませんでした。

レー初日はメインバザールあたりをふらふらと歩いたのみで終了。
つづきはまた次回

夏草や・・・

ああ 夏草や 夏草や

さすがに真夏に5週間も留守にすると、雑草がとんでもないことになりますね。
写真左端は通路で、オットが本日草刈りした部分。
中央部分は果樹とその向こうが畑なんだけど、畑の雑草はでかいのはヒトの背丈くらいになっています。栄養もいいし、育ち放題に育った。

午後というか夕方、この雑草の波に埋もれてしまった小さな果樹とかぼちゃの救出作戦に乗り出しましたが、体力がまったくない状態なのか、ほんの小一時間で胸のランプがピコピコ「ウルトラの星へ帰れ」と言い出したので早々に撤収。シャワーを浴びて人心地。
いやまったく、暑いのはしんどいですな。
冬になると寒いのがしんどいけどね(笑)。

そういえばじゃがいもはどうなったかな。

 

インドに行くといつもそうですが、今回も最後に胃腸炎になりました。
その最後というのが、デリー~北京の機内だったという、我ながら見事な。
そこまで本当によく持ちこたえたものです。一度けっこうまずい状態になりかけましたが、そのときはインドの下痢止め一発で効きました。
ただ帰国してまでインドの薬をのむかというと、ノー、ですね。強すぎるし、正直安全性には疑問だらけ。
と言いながら、延々とインドの風邪薬と抗生物質までのんでしまったので、しばらくは注意しながら生活しなければ。と思っています。
まだ咳も下痢も止まらず、そうそう、帰国直後に計った時は「1.3キロしか減ってない」と思った体重が、そこから2キロ落ちましたわ~。何なの。

詳しいことはおいおい書いていきますが、とにかくインド。
まぁいろんなことがありましたー。
物価がおそろしく上がってぶったまげましたし。
なのに中身まったく変わってないしね。
生地の仕入れという部分ではもう本当に難しく、魅力も失せつつある。何より質が落ちたものを3倍の値段で買うというのは・・・。
これはちょっと、全体的に自分の仕事を見直していかなくちゃいけないなと、痛感させられました。

世界は変わっていく。
ほんの数年前までは、「安いアジアで仕入れたもので商売をする」ことが可能だったけど、もしかすると既にその方程式は成り立たなくなっていたのかも。
そしてその流れはどんどん加速していき、そのうちにインドもタイも日本と物価がさほど変わらなくなる。それでもいいものがあればいいけど、かつての日本と同じでものすごい勢いで人々は手仕事から離れつつある。

さてどうしましょうかね・・・。
なんてことを考えながら旅の後半、デリー~ジャイプールを過ごしました。

 

デリー~レー
機内よりヒマチャルプラデシュとザンスカール境あたりの上空か 2018.07.15

山はいいんだけどね~♪

ではまた~

 

お久しぶりです

たいへん長らくご無沙汰しました。
7/14~8/19、この間インドに行っていました。
パソコンも持っていかなかったので、こちらの更新はまったくしないまま。
時々ここで「ツイッター~」と書いていたのはそのせいでして、ツイッターで現地のいろんなことなど書いてました。

帰ってきてしまえば、すべては夢の中の出来事のようです。

インド旅行のいろんなことは、おいおい書いていくつもりです(いつもそう言ってそれっきりだったりするが^^;)

今は最後の最後に来た胃腸炎と。
こちらは旅の前半からずっとお友達の咳と。
この2つをなんとかしたい。
週末にクラス会があるんだけど、今んとこ行ける気がしない(>_<)

ではでは、とりいそぎ無沙汰のお詫びまで。
台風が来るようですね、今年は暑かったようですし、みなさまお体に気をつけてください。
ではまたですじゃ