きのう高橋の『邪宗門』についてちょっとだけ触れたので、そうそうアマゾンにある本の写真でも貼ろうかなとぐぐったら、読書メーターというのが出てきて。どれどれと覗いてみたところ、比較的若い人の投稿と思われるものがたくさんあり、驚くと同時にやっぱりうれしくなる♡
私自身はもう30年以上も前にファンであり研究をしていて、高橋が書いたものはほぼ全て読んでます。それこそ大学の会報みたいなものに書かれてそれっきり、というようなものも、当時は学生でしたから他大学の図書館にも入ることができて、資料を出してもらって(閉架にしかないですから)コピーさせてもらって読んだものです。
ただ卒業してからは、あまり読むこともなく遠ざかっていました。オウム事件の頃に邪宗門だけは読んだかもしれませんが、記憶にはありません。
彼の書くものは、とにかくひたすら重くて暗い。
怨念のようなものがこれでもかと込められている。
彼は「五寸釘を自分の体に打ち込むように文字を書いている」と語っています。
彼の文章を読めば、それはそのとおりではないかと、決して誇張ではなくそのとおりだったのではないかと、思えると思います。
昭和6年生まれの彼の怒りが何に対するものであったのか、正直共感を持ってこれだと言うことはできないのですが……。
もちろん、京大三羽烏と呼ばれた一人である小松左京が「高歌放吟呵々大笑」と書いているように、そういう別の面ももちろん持っていたのだと思います。けれども思春期の頃または前後に終戦を迎えた人々には、とりわけ感受性が強くおそらくIQも高いような人たちには、ある特有のおそろしく暗い何かがあるような気はします。開高健など読んでもそう思います。
とにかく、今の時代にもこの作品が読まれている、この作品から何かが受け取られ続けている、ということに本当に驚くと共に安堵しました。今の時代にはまったく受け入れられない作家であり作品であり文章であると私は思ってしまっていたので。
「俺の書くものは多くの人に読んでもらえんでもええ。たった一人の人間が、便所の中で読んで泣いてくれればそれでええ」(記憶なので原文とは違います)
高橋の言葉です。彼は大阪生まれなので関西弁。
私もたくさん励まされたし学んだことがたくさんあります。今に何も活かせていないのは置いといて。
身を削るようにして書いてくれてありがとう、と、あらためて思いました。
その読書メーターはこちら
(ちょこっと補足)
『邪宗門』は宗教の話ではあるのですが、国家、思想、人権・・・といったかなり多岐にわたるテーマが複雑に絡み合っていて、そういうものと「個」の関係性あるいは対峙といったことも描かれている小説だったと思います。
彼の小説の重さ暗さというのは、いわゆる「知識人の苦悩」でもある。知識人というくくりの人たちがいて、思想というものが存在していた頃、でなければ生まれることもなかったかもしれない、と思ったり。「思想」は今ももちろんあるけれども、思想を語ることはなくなった、非常に少なくなった、のではないかな。それは「詩」が消えた(ように見える)ことと一緒だと思う。
補足と言いながら何書いてんのかわからなくなった。ではまた