和巳忌に

(いぃ男でしょう? 画像小さいけど)

毎年のことなので、あぁ今年もその日なのかと、思う方もあるかもしれません。それが狙い、というわけでもありませんが、高橋和巳、現在においてはほとんど忘れ去られたかに思えるこの地味~な作家について、1人でも知っていただけたらな、と思っているのは事実であります。
私は大学で、高橋和巳をやりました。高橋和巳しか、やりませんでしたw そんな私が卒業できたのは、ひとえに友人たちのお蔭であります。皆さん本当にありがとう。

昭和6年に生まれ、14歳で終戦、新制京都大学の一期生として中国文学を学び、中国文学者として、小説家として、評論家として生き、昭和46年の今日39歳の若さで逝った高橋和巳。立命館、明治などで教鞭を執り、京都大学に助教授として戻りますが、亡くなるすこし前に辞職しています。この頃は学生運動が盛んな時期で、高橋はこれに巻き込まれ、親友の小松左京曰く「右顧左眄をくり返し」た挙句に挫折、京大も辞職に追い込まれました。
左翼的思想の持ち主ではありましたが、三島由紀夫と対談したりもしている、そういう意味では懐の深さを併せ持った人だったと思います。余談ですが、大学3年のときに「論題提出」というのがあるのですが、私が和巳で出したら、教授は顔を真っ赤にして「そんなサヨク作家の論文は認めないっ!」と教壇で喚き飛ばしましたっけw 鴎外藤村漱石、このあたりでやっとくような学生がお好きだったようで・・・(笑)。

サヨク作家とレッテルを貼られるのは心外です。小説にはサヨク的な部分はほとんどない。彼が左翼思想を表現したのは評論の世界だけでした。
否応なしに破滅に向かって転がり落ちていく人間、に執拗にこだわった作家でした。どの小説も、ある日突然心の中で何かが壊れ、真っ逆さまに堕ちていく人間が主人公。なぜこんなにも、壊れる、堕ちる、ことにこだわり続けたのか、こだわり続けなければならなかったのか。人は壊れるもの、堕ちるものという諦観を、なぜ彼が抱きそして固執したのか。未だに謎のままです。卒論では一応、答えらしきものを導き出したけど、それも今となっては違うと思える。
その作風から、苦悩教の始祖などと呼ばれ、まことに憂鬱な人、世界の悲哀を一身に背負ったような人、というイメージが根強いのですが、同時に高歌放吟、呵呵大笑といった意外に豪放磊落な面もあったらしい。しかし、彼という人間の本質は、妻であるたか子さん(作家・高橋たか子、今も存命)の言う「弱い人、哀しい人」であったのだろうと私も思います。
「今度こそ明るい小説を書きたいんや」と語った対談の相手は、三島由紀夫だったか。亡くなる直前です。で、絶筆となったのが「黄昏の橋」という小説なのですが、読み出してほんの数ページでもう転落し始めるw 全然ダメじゃんか、高橋! 
つまるところ、それしか書けない。それ以外に書かなければならないものはこの人にはなかった。そういうことなんだろうと思います。

代表作 『悲の器』 『邪宗門』 『憂鬱なる党派』 『堕落』
評論の代表作 『わが解体』 『孤立無援の思想』
中国文学者としては、六朝美文の専門家でありました。吉川幸次郎氏が後を託すのは彼だと言っていたのに、師よりも先に逝きました。
享年39、死因は結腸癌でした。たいへんな大酒飲み、ヘビースモーカーでもあったようです。

昨日、アルカイダの首領であるビンラディン氏がアメリカ軍によって殺害されたとか。
和巳が生きていたら、なんと言うだろう、なんと書くだろうか、と思いながらそのニュースを見ていました。

一声、試みに呼号せよ
我に不易の正義ありと
星々はなおも大空に輝き
空は玄く(くろく)
宇宙はかくて
絶え間なく運行するというのに
なぜ わが森はかくも無残に
息絶えたのか

(「森の王様」 未発表・高橋和巳全集1巻に所収・昭和28年頃の作と思われる)

毎年、和巳忌の頃は、しだれ桜は咲き、ヤマザクラも年によっては咲き始めているのですが、今年はようやくしだれが咲き始めたところで、全体的に何もかも遅い春になっています。
今日も曇り、夕方から雨という陰鬱な天気。ストーブを焚いているくらいの陽気です。
連休も後半、道路はそこそこ混んでいるらしいですね(今日もお客様情報)、景気はどうなのかな。ではまた