まったく暖かい

今日も暖かい一日で、図書館まで歩いて往復。贔屓の恒川光太郎や、桜木紫乃の昨年ここで読んだものの続編などを借りてきた。この図書館にお世話になるのもあとほんの数回だなぁ、と、しみじみとしてしまう。
縁がある土地ってそんなにあるものではないと思う、どんな人でも。私は生まれた世田谷区と、父の仕事の関係の新潟県と、1年住んだ大宮と、1年住んだ群馬県の町と、今住んでいるところ。そしてここ。きっと思い出すだろうなと思う、ここの海が見える団地のことは忘れないな。

問い合わせをしていた過去ブログのアカウント、数度のやり取りを経てようやく本人確認をしてもらい、管理画面に入ることができた。まずは自分のブログなどへのリンクを消した。それぞれもうURLは変わっているけど、タイトルはそのままだったので。
それから不適切なコメントを消そうかなと見てみたら、なんと、非公開のままになっている知人からのコメントを発見した。15年近く前のことだけれども、誠にあいすみませんでした。

で、さらに投稿の中で別のブログに誘導しているところなんかを消していたら、すっかり忘れていた、どこに行ったのかなと思っていた当時のビザラン旅行の投稿を発見し、懐かしく読んだりした。
みゆきさんの「紅灯の海」という曲が好きで、この歌を聴くと頭に浮かぶのはラオスのビエンチャンのメコン沿いの風景なんだけど、なぜ自分の中でそうなったのかもそこに書いてあって懐かしかった。
この頃はまだ、自分の思ったとおりなんでもかんでも書き殴っていたなぁ(^^; この翌年からの数年間にいろんなことがあって、ある部分の心を殺したような感じになり、ものすごく自分にブレーキをかけるようになったんだった。

そこにコメントを寄せてくれていたような人とも今はすっかり切れてしまっているけど、過去のそういうものを見るのって恥ずかしい半分、うれし楽しい半分、だなと思った。

そんなことがあってからもまたたくさんの時間が過ぎて、昨年は大きな病気もした。あの時全身麻酔で一度死んでまた生き返ったので、今の自分は生後半年、ってことにしてもいいかと思ったりしてみる。何もかもなかったことにはできないけど、また自由に書ける時が来たらいいなと思うし、いや、そうする、と決めたんだからそうする。既にずいぶん戻っているとも思う。

そんなことを考える、という意味でも、昔のブログを発掘できてよかった!
そのブログも非公開にして一件落着。自分ではログインできれば読めるし、「バカだったな~わはは!」とか、やれるので残しておこうかと。

 

 『問いのない答え』 長嶋有
たぶん前に一度読みかけたと思う。その時は読み進めることができなかった。くるくると一行開けすらなく主体が変わる独特の文章にまったくついていくことができなかったのだと思う。今回も半分くらいまではきつかったが、後半は慣れた。人間は慣れる生き物なのだと思った。
☆3.5 こういう言葉の実験みたいなものは好きだ

そういやみゆきさんの夜会も「言葉の実験劇場」だったですね。

人は取り換えが効く、という表現が2か所にあって印象に残った。そうなのかな、そう言われたらそうなのかな、人、それは発する言葉であることが多い、特に今の時代はSNSとやらで発言しまくりだから、その「言葉」はたしかに取り換えがきくし、誰が言ってても関係ないし、うーん、どうなんだろ。
この小説はツイッターが舞台になっている。私も最近またツイッターを見始めたというか、たまに何か書いたりしてるんだけど、「ジェンガが積みあがるように言葉が積みあがっていく」みたいな状況がよくわからない。ツイッターにもラインのグループ化みたいなものがあるのかな。
上の「取り換えが効く」という感覚も、ツイッターのような、知らない人の発信を見ることが出来る空間上で感じる何か、なのかもしれない。実際に会えば、その時には取り換えが効かないヒトとして認識されるのではないか、そうであるといいと思う。

ツイッターって、よくよく見ると自分の写真をアカウント? にしている人って少ないのだなとつい昨日あたりに気が付いた。私は再開した時にグラサンかけてる自分の写真にしたんだけど、そっかそっかと猫(貰われていったしろちゃん)にした。それはそれで何か変……。イラスト描ける人がうらやましい。

長嶋有を読むと、長広舌になる。

ではまた

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