何日か続けて片付けをしています。
几帳面な両親だった(母はまだ健在ですが)ので、多分、数十年ものの堆積がある古い実家の片付けに比べればずっと楽だとは思うものの、でもやっぱり自分以外の人のものって片付けるのは心理的な負担がありますね。
そんな中でも意外な発見があったりします。
1. 父の宅建免許が出てきて、え、持ってたの? と思ったこと
2. 父の会社関係のファイルの中になぜか私のお琴の免状が! 初段と中級(?)を卒業したことになってました。子どもがほんの3~4年やっただけですから、始めたらすぐに取れるのがきっと中級なんでしょうね。でもそんなのを父が保管していたなんて驚きました
3. 母方の祖父が書いたと思われる自分史のようなものを発見。ほんの数年前に書かれたものだと言われても不思議はないようなきれいな紙、筆跡。丁寧できれいな文字、明治の人らしく森鴎外かと思うような文体でした
母方の祖父の話は、ちょうどこの1週間ほどの間に、旅の友人としていたところでした。職業軍人でビルマ戦線にも関係があった(と記憶)、というようなことを、インパール作戦の白骨街道が正式に開いたことに絡んでやり取りしていました。
そこへ持ってきて、父の書棚からふらっと現れた原稿箋。最初は父が書いたのかと、でも字が違うような、それに内容も父とは思えず、では一体誰が? と何冊もあるそれを斜め読みしてようやく。祖父ではないかと。
祖父は私が生まれる前に亡くなっているので当然私の記憶にはなく、祖母も同じくなのと、母が自分以外の人間の話をまったくしない人だったために、祖父の話を聞いたことがない。かろうじて職業軍人だったと知っているだけでした。
だから私は、50代も半ばになって、初めて祖父という人に出会った、のでした。
書かれた言葉というのは、まさしくその人そのもの、生身の人間。突然目の前に現れたので驚いたし少なからず動揺しました。そこにあるはずのないものだった、ということも大きい。三女である母のもと、しかも母ではなく父が持っていたというのはどういうわけなんだろう。
祖父は陸軍幼年学校を出て(戦争遺児の貧困家庭対策のようなものだったらしい)軍人になり、大尉まで昇級した後に陸軍大学校に入り、卒業。いわゆる天保銭(組)です。そして2.26事件によってこの天保銭制度が廃された、という記述を最後に自分史はふっつりと終わっています。そこからは「幸福について」とか「子どもたちに望むこと」などの雑感がいくつか綴られているので、戦争そのものについては書くつもりがなかった、書かなかった、ということだと思われます。ですから祖父が実際にどのように戦争に関わり、どこに行き、何をしていたのかは全くわかりません。大尉になってから終戦まで10年以上あったので、少佐、中佐、と階段を登ったかもしれません、わからないけど。
生きているうちに会えたら聞いてみたかったことがたくさんあるなと思いました。そして人の一生って、こんなに短時間で、まったく不明になってしまうものなんだなぁと。語り継ぐ人がいれば違うとは思うのですが。「おじいさんはこんな人だったよ」「よくこんなことを言っていた」などという話を母から聞いていれば、私の中で祖父は生きていたのじゃないかなと思います。そうであれば「初めて出会った」などとは思わなかっただろうな。
いろいろと考えさせられた出来事でした。
片付け作戦はまだ続く予定。片付いたら、私の工房をそちらへ移します。
軽井沢の本日は曇りときどき晴れ、強風、でした。気温もけっこう上がっていたかと思います。明日以降も梅雨空が続きそうですね、ではまた