ちょっと贅沢

予報がはずれて、今日も雨。仮住まい中のシジュウカラも困っている様子。
朝は止んでいたので、今日こそ植え付けをしようと苗を外に出していたら降ってきた・・・・・・。
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そんなわけで、ウメの散歩は間に合ったけど、その後は外仕事はできず。前から気になっていた台所の棚に、目隠しをつけました。
下げる布を探してうろうろしていたら、今年私がタイで買ったシルクのストールがぴったり、ということがわかり、かなり贅沢なんですけど、それにしました。木綿でも何でもいいのですが、たまたまサイズが・・・。
今年は家の中のいろいろなものを整理して、すっきりしようと決めています。うん、決めているのですが、実際には何も進みません。
何しろ、我が家は店をやっているので、その商品群も家の中に侵入してきています。備品類も。これらとの共存がやっかいで。あ゛ー、すっきりしたい。
とにかく今年は、壊れたパソコンやモニターの類とは絶対におさらばします。
読んだ本
『決壊』 平野啓一郎
上下二巻、長い小説です。正統派純文学系。
ある日突然、理由なき悪意によって惨殺される男と、その家族の物語。主人公は男の兄。警察とマスコミによって犯人と決め付けられ、長い拘留の果てに処分保留で釈放されますが、その間に父が自殺、母が精神を病み、自身もまた壊れていく・・・・・・。まったく救いのない物語で、最後も悲劇的な結末で終わります。
犯人探しのミステリーではないので、先の展開は読めるのですが、であるがゆえに、ページをめくるのが怖い。知りたくない、この先を読みたくない。そんな風に思う本を読んだのは、一体いつ以来だろう。
怖いというのは、殺し方が残虐である、次に誰が殺されるのだろう、というような怖さではなくて、読み進めて知ってしまったら、安穏と生きていくことがたとえ短期間だろうとできなくなる、というような、本能的な恐怖と言ったらいいでしょうか。
家族が殺されることによって、残された家族がそれぞれのやり方で壊れていくわけですが、しかし何よりもじわりと怖ろしいのは、実はその「決壊」の芽というものは、既にして各々が自身の内奥に潜め、あるいは飼い育てているのではないか、という事実です。何かがポンとスタートボタンを押すことによって、人はこのように壊れていく。その芽は、誰もが持っていて、今にもうずきだそうとしているかもしれない。
主人公の弟は、明らかな悪意によって殺されるわけですが、その父を、兄を殺し、母を精神的に殺すのは、特定の人間の明らかな悪意、ではありません。
善意によっても人は死ぬ。
人と人は永久に相容れることはない。
お前の生には意味などない。
そのようなことを、断片的に突きつけられる小説でした。
何かのきっかけである日突然壊れ、坂道を転げ落ちるように破滅への道を突き進む人間を、執拗に書いたのが高橋和巳でした。堕ちて行く人間を描きながら、彼の目はどこを、何を見ていたんだろう。
そんなことも思いました。
などということを考えられたのは読後24時間が過ぎてからで、それまでは文字通り「放心」状態でした。
すごいものを読んでしまった・・・。
他の人が読んでどんな風に考えるのか、知りたい小説です。
☆は・・・・・・、つけるのもおこがましい。今回は枠外。
明日こそ晴れる予報になっています。ではまた

8件のコメント

  1. なんとなくですがおっしゃるところがわかります。最近本棚にあった父の蔵書であったらしい『氷点』で有名な三浦綾子氏『毒麦の季 』という短編集の文庫本を読みましたが、あまりに救いのない内容に、思わずラストだけ読んで、ちょっと時間が経ってから少しずつ間を読んでいったりしたのですが。
    夫の不倫で母親二人の子のうち姉だけ連れて弟を夫と継母のもとへ残し、その残された男の子が継母に気まぐれに育てられ、親類に身を寄せる実母と姉のもとへ逃げ出そうとするときに、親類の子の従姉妹に母の悪口を言われカッとなり、突き飛ばした拍子に川底に転落、殺人者となってしまう。会いたくて仕方なかった実母にもう会えない、大変なことをしたとパニック状態になり山に向かって一人逃げ込むところで話は終わってしまいます。自己中心的な生き方では、突き進む先には破滅しかない。では自己中心でない人間などこの世に存在するのでしょうか。破滅ではなく幸せへの道を暗中模索する毎日なのですが、反面教師としての参考書とするしかありません。
    佐藤愛子氏が85歳で最後の短編小説を出版という特集を患者様宅で拝見しましたが、その中に「善意ほどやっかいなものはない、悪意を持った人間となら戦う気力も湧くというものだ」というくだりがあると紹介されていたのを思い出しました。読んでみたいようなみたくないようなw
    長くなりました、この辺で失礼いたします。アドバイスをありがたく頂戴いたしました。

  2. 三浦綾子さんといえば、私にとっては『塩狩峠』が最も印象に残る、強いキリスト教信仰に裏打ちされた小説を多く書かれた方ですが、そういう毒のあるものも書いていたんですね、知りませんでした。この概略からは、主人公が自己中心的というイメージが湧きませんが、ほかの家族も含めてのイメージなのかな、きっとそうなんでしょうね。
    まるでピントはずれなことかもしれませんが、「自己中心でない人間などこの世に存在するのか」という問いに、『塩狩峠』は一つの答えを出していると思いますよ。既読だったらごめんなさい。
    中途半端、おざなりの善意ほどやっかいなものはない、のかもしれません。こちらも長くなって失礼。

  3. 早速図書館にアクセスしてみます。仏教では自己中心すなわち利己主義に相反する言葉として利他の精神とよく言われますが、利他が極まれば利己となると説かれていることを考えると、この二つは陰陽のような関係なのでしょうか。学習に励みたいと思います。

  4. すみません再び。三浦氏の小説の主人公が子供だと考えると、その両親や周囲の大人が自己中心に生きているためにスケープゴートとなるのはいつも弱きものたちである、ということが主題なのだと思います。信仰に厚い作者だけに、信仰なき生活というものの行き先、神仏の智慧なき人間の不幸というものを敢えて表現したかったのではと思いました。信仰のない人々が全て不幸になると言っているわけでは決してないのですが。

  5. やめとこかなと思ったんですが、やっぱちょっとだけw
    現在生きている人間に解決できる問題と解決できない問題がある。おそらく、政治的社会的に解決できる問題の外こそは文学とか哲学とかが扱う部分なのかもしれない。どんなに理想的な社会が出来ても人間は苦しむんだと思う。或いは社会的政治的には将来から見たら こんなことでと思えるような事象の中にも現象の出現として現に今生きている人間の根源的な苦悩は存在し得るのかもしれない。
    でもね、僕は思うんです。政治や社会の改革で回避できる人間の不幸は回避すべきだと。おそらく、文学の役割はその後にこそあると。ただ、それは現に浮世を生きる人間達にとっては毒かもしれない。そんなことに頓着しない方が幸せに決まってる、とね。
    えと、和巳は、社会的にも根源的にも、柴田翔のようには楽天的ではなかったのだろうし、彼より遥かにナルシストであったのでしょうね。
    ん・・・歳取ってくると、そういうことは端折っておけるようになるんですねw 若い頃には思ってもいなかった^^

  6. ななよしさん、信仰と個人の幸福というのは実に難しい問題ですよね。信ずるものは救われるというのはおそらく真実なのだと思います。他者がどう思おうと本人が救われてればいいわけだから、という意味合いですが。私はほとんど信仰心ってものを持ち合わせない人間なのですが、うーん、持っているかの如く装うそこらの糞坊主よりはマシだと、思ったりしているんですが、こんなこと考える時点ですでに人間失格かな・・・ww
    没さん・・・・・・。すいません、パス・・・・・・。
    たしかに高橋和巳は全世界の苦悩を背負う「苦悩教の教祖」として悶死するのが似合ってしまったのだけれど、柴田にそのキャラクターは馴染みませんよね。あまり関係ないけれど、『二十歳の原点』が復刊されたらしいですね。高野さんって立命館でしたよね、高橋と会ったことはあるんだろうか。

  7. 『塩狩峠』読みました。良本をご紹介いただき感謝します。感想書いてみましたが、感動を文章にするというのはむずかしいですね。

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