死にそうです。軽井沢なのに。
ちょっと畑で草取りとか、ガーデンで植物の植え替えのため穴掘ったりすると、汗どばどばで、倒れそう。
などと思っていると、夜のニュースで「九州では35度を各地で超えた」とやってました。すいません、軽井沢は28度でした。出直してきます(笑)。
掲示板へのスパム流入が止まり、ほっとしたのもつかの間。今度はブログコメント欄へのスパムが始まりました。うーん、こういうの止めるのって、方法はあるんだろうけど、調べるのも実現するのもめんどくさいですー。放置しよう。
わが家は今、日経新聞を取っているのですが、ちょっと前から小松左京のエッセイが始まって、毎日楽しみにしています。
このエッセイ、いろんな人が自分の人生を振り返りながら書いたものが連載されるのです。1人の人がどのくらいかな、2週間か3週間? 続きまして、小松左京の前はたしか作曲家の遠藤実氏でした。これも面白かったです。
小松左京といえば、『日本沈没』ですなー、やっぱり。新しく映画化もされたんですよね、見てないけど。
私にとって小松左京は、京大時代の高橋和巳の親友、というのが大きいです。エッセイでも今日、高橋和巳が出てきました。いよっ、待ってました。
高橋和巳という作家を、ご存知の方って少ないんじゃないかと思います。もしかすると、オウムのときに騒がれた『邪宗門』なら、ご存知かも? けっこうな数の小説を発表していますが、有名で今も読み継がれるものといえば、これか、あるいは『悲の器』あたりかな。
昭和6年生まれで、14歳で敗戦を迎えた高橋は、世の中がある日突然ひっくり返るという恐怖からついに逃れえず(まぁそれだけじゃないんだけど)、39年間の短い生涯で、ひたすら、「ある日突然堕落しはじめて最後には破滅する」人間ばかりを描きました。高橋自身が何度も、「俺は今度こそ明るい話を書きたいんや」などと対談などで語り、相手(これが三島由紀夫だったりするわけよ!)も「うん、それがいい」などと励ますんだけど、結局同じことの繰り返しで・・・。最後まで、そのままでした。
この人はむしろ、中国文学者として名を残すべき人だったんじゃないかな、と思います。
若者のオピニオン・リーダー的な立場に立たされてしまい、学生運動の只中に放り込まれ、裏切られ、おそらくは死期を早めたであろう高橋和巳。彼が亡くなったあと、たくさんの弔辞が書かれましたが、ずいぶん時が経ってから小松左京が「ただ一度だけ」と断って書いたそれほど、胸を打つ弔辞を、後にも先にも読んだことがありません。
明日から、どんな回想が出てくるのか、楽しみです。だけど、今日のエッセイの末尾が「高橋のことを考えるとかなしくなる」だったから、これでもう終わりかもしれませんけどね。
小松左京は、愚直すぎる高橋を愛してやまず、けれど、彼をあのバカな嵐の中から救い得なかったことを、悔やんでいるのではないかな。もし高橋がずっと京都に残っていたら、あんなに早く死ぬことはなかったように私も思います。
すいません、このへんの話になるとさっぱりわかりませんよね。説明するには膨大な字数がいるので、もうやめます。
因みに、私が読んだ小松左京の小説のなかでいちばん記憶に残っているのは、『木静かならんと欲すれど』だナ。短編です。たぶん小学生のときに、何度も読みました。ご興味ある方はぜひ。んで、どの本に入ってたか教えてくださると大変ウレシイです(本人は忘れております)。
今週末は連休なんですねー。ここから夏休みが始まるって感じですか? 聞いてどうする。
お天気はずっと曇りや雨マーク。梅雨明けはまだ先になりそうですね。
では。
高橋和己という作家が文学史に残る事は、全共闘という項目で触れられる以外には無いのかもしれない。彼の思想を今日的状況から批判する事もまだ簡単だろう。
「鼠捕りの金籠のように、二度と後戻りできない憤怒をかきたてようとして、私は疲れた。…(中略)…大人たちがあまりに貧しい道徳しか持たないために、子供たちまでが、安易に手をつなぎ、環をなして歌う。…(中略)…だが一つだけ本当のことを言おう。…(中略)…青春が破廉恥な牢獄と、その牢獄の中で死んでいった一匹の蝶にすぎなくとも、いま君たちは手などつないではならぬ。」
和己が学生時代に書いた「子供たちに与う倨傲の歌」という詩の一説だ。団結を求めて孤立を恐れず。結局、和己は「孤立の優秀の中で」死んでいったようなものなのだが、けれど、和己という人間の倫理性といったものは、今日の社会でも尚且つ、或る種のモデルに成り得るものだと感じる。むしろ今日こそ、と言うべきかもしれない。
長コメでごめんなさい。
己巳…あり得ない_| ̄|○
長い時間が過ぎたって事でしょうか…^^A;
そのうち、「植」谷雄高とか書くようになるのでしょうか_| ̄|○
高橋和巳。
焦りました。いくら暑いとはいえ、卒論書いた作家の名前の文字を間違えたかなーと、思わず全集引っ張り出しました・・・。
和巳、ですね。よかったー。
それにしても没関系さん、「子供たちに与う倨傲の歌」が出てくるとは、びっくりしました。昨日の日経新聞では「捨子物語」が出てきて、あー懐かしいなー、などと思っていたところでしたが、「子供たち・・・」となると懐かしいなんて感想ではなくて、なんというか、「死霊」が立ち上がってきたみたいです。ちょうどお盆ですしね(笑)。
私は論理的な表現が苦手なので、うまく書けないと思いますが、高橋が学生運動に巻き込まれて担ぎ出され、その挙句に「清官教授を排す」などと裏切られたとき、実際には発しなかったでしょうが、「信義を守れ」と叫びましたよね。この一言は痛切で、今あらためてここに書いても胸を打たれます。
高橋は、たか子氏が言うように弱いひと、かなしい人であり、小松左京が言うように、誠実であるがゆえに右顧左眄を繰り返し、結果として自分自身を殺してしまった、のでしょうね。
高橋がもしあの後10年なり20年なり生きたとして、そのとき彼は彼が言う「明るい小説、希望のある小説」を書けたでしょうか。
長文で失礼しました。
高橋和巳を題材にした卒論なんて受け取ってくれるのは何処の大学ですか?私立では早稲田か法政くらいしか思い浮かびません(笑)
「清官教授を排す」って、確か中国の話のもじりかなんかじゃなかったかな?違ったかな?まあ、本棚を引っ繰り返せば分かるんですけどね。
僕には、あの後10年20年後の和巳が想像出来ません。そこは柴田翔なんかと違う。もしあの時に病死しなかったとしたら、その後の世界に彼は耐えられたんだろうか?と。和巳が教鞭を取っていた時代の学生、全共闘世代って要するに団塊の世代ですよね。彼等の殆どは軽やかに(じゃないかもしれないけど)「転向」していった。むしろ裏切りは「清官教授を排す」と突き挙げられたことじゃなく(それはむしろ和巳の信義に火を点けた訳で)、その後の学生達の「転向」なんじゃないかなぁ…
えと、僕は埴谷雄高を卒論にする筈だったんだけど、訳あって4年で野に下りました^^A;
あ、大学名、分かっちゃいました。本の裏に書いてありました(笑)
埴谷雄高ですか。精神のリレーですね。
私、『死霊』が苦手で結局読了しておりません。あ、あれって完結したんでしたっけ・・・?
和巳のその後に関するコメント、同感です。
彼はあそこで死ねてよかったんだろうな、と思います。彼の死は、かなりの部分で彼自身が望んでそうなったような、もちろん病死なんですが、病気になるような生き方をしていたようですから。彼は彼自身がどこかで書いているように、自分の役を演じきって、静かに舞台から去っていったんだと思います。
その後生きたとしても、彼は終生とらわれ続けた呪縛からは解き放たれなかったと思いますし。もちろん、わからないですけどね、人間って変わると言えばそうなんですが。
そしておそらく、信義なんて言葉がまったく意味をなさなくなる時代に絶望し、壊れていったと思います。
たか子さんは信仰に救われたようですが、和巳にはそれはありえないと思いますし。
なんかとりとめない話でスミマセン。
卒論受け取ってくれた高田教授に感謝しつつ寝ます(笑)。
完結ですかぁ? あり得ませんって(笑)
でもね、埴谷爺さんは耄碌しても埴谷で、群像86年9月号に八章、95年11月号に九章を発表して、97年2月に漸く逝きました^^
『死霊』は『不合理ゆえに吾信ず』を手がかりにすると取っ掛かりが掴めると思いますよ。尤も、今更読み直さないっか(笑)
そう言えば和巳は或る時、著作だったか講演だったかで、埴谷の言葉をそのまま自分の言葉のように言ってしまった事を指摘され、あまりに何度も反芻した為に自分の考えと区別が付かなくなったのだろう、みたいな事を書いてますね。もちろん彼の事だからそれは嘘ではないんでしょうし、実は僕も和巳の言葉を知らず自分の言葉として発していることがあったりします。
ところで、国益などという言葉を常識として発するようないインテリがマスコミで幅を利かせている今日、あそこまでインテリは倫理的たるべきとした時代、しようとした人がいたのですね。
通俗的邪推ですが、勿論、たか子さんじゃなく俗な女性だったんら和巳は闘えなかっただろうけど(笑)、でもね、もし違う女性だったらということは、ちょっと思います。若い時にはそんなこと考えなかったですけどね。和巳、39歳ですよ。ずっと年上になっちゃいました(苦笑
えと、和巳を卒論に云々というのは、現代文学を扱っている文学部って少ないとだろうと思ったのと、取り分け第一次戦後派より後の世代(大江や吉本は別にして)を受けてくれる教授(部の方針)って稀かなって思ったからです。良かったですね^^
人と和巳の話をしたのって、20年以上振りかもしれません。いっぱい長いコメントに付き合ってくれてありがう。あ、読んでみたく成っちゃいました、ヤマネさんの卒論(笑)
『死霊』、あー、もうダメですね、きっと。昔よりさらに読めないような気がします・・・。昔は一応「読まなきゃ」っていうモチベーションがありましたけど、(あったのに読めなかったなんて・・・)今はもう、ダメです(笑)。
それにしても、いやまったく、倫理なんて言葉も死語ですよね・・・。
私も高橋和巳の年齢を超えたときは、感慨深いものがありました。あまり上手な作家ではなかったですけど(失礼だな)、それでもあんなにたくさん書いたんですよね。しかも原稿用紙に手で。
たか子さんの回想の中で、留守番をしていた和巳がお釜のご飯に塩をかけて手づかみで食べ、そのまんまの手で眠っていた、というようなエピソードがありましたね。本当に、書くことにしか興味がなかった、書き始めると他のことがまったく目に入らず手にもつかなかった、和巳がよく伝わる逸話でした。
大学の話はまさしくそうですね。私のところも近代文学で終わってて、漱石か鴎外か藤村だろっ、というような調子でした。
いやぁ、私も、高橋和巳の話なんて誰ともできませんでしたですよ。ゼミの教授が唯一付き合ってくれただけです。忘れてたものを思い出しました、ありがとうございました。
埴谷雄高御大の話に付いていけずすみませんでしたー(笑)。