事務仕事

過去の写真の取り込みはいったん終了。切り出し後のポジフィルムが大量に残っているが、これはまたいつかやろう。
2001年から2005年くらいの間に、デジタルカメラに移行したと思うのだが、この頃の旅の写真が完全に消えていることがわかった。デジタルで撮影して、一旦は何らかの形でPCにも移したのだろうと思う。その後、何らかの事情でそれを廃棄してしまったのだと思われる。または、この頃にPCがクラッシュしたことがあって、失ってしまった可能性もある。よく覚えていないのだが。
バングラデシュやインドのダージリンなんかに行った時の写真がごっそりないのが残念……。インド、マレーシア、シンガポール、インドネシア、このあたりがごっそり……。どっかにないかな~(ない!)

今週はずっと、インドとやり取りをしている。以前購入したことのある工房にメールを送ったりして、何とかオンラインで発注、発送してもらえないかと交渉中だ。インドの場合、おそらく輸出免許が必要なのではないかと思う。それに一点ずつ写真を撮って送るとか、無理だよねと思われる工房も多い。別の業者(免許所有者)を紹介してくれる工房もある。喜んで連絡すると返事がない……、なんていう非生産的なことを延々と苦手な英語でやっている。
そうかと思うとものすごい勢いで返事が来て、WhatsAppというアプリでやり取りさせろと言ってくるところもあり、便利なんだけどちょっと不安もありながら、何とかうまくいかないかなと思っている。

というのは、コロナの状況を見るにつけ、どう考えても今年インドに行くことは不可能だと、楽天的な私も悟ったからだ。タイですら行けないかもしれないし、インドに至っては下手すると2022年末辺りまで、普通の渡航はできないかもなと思ったりする。となるとさすがに生地が足りない。
それともう一つ。
コロナで世界は変わるということ。変わりつつあるということ。それに自分もついていくしかないということ。そんなことを痛感するようになった。今までの自分のやり方では、今はやれることがない。進化しているインターネットを利用し、頑張って変化に対応しなければいけないと、ホントに今さらだけど考えている。

英語のできる秘書がほしい(^^;

そんな作業の傍らで、確定申告の準備なども少しずつ始めている。オンラインの会計ソフトを使っているので、そんなに大変ではないけど、旅費の精算がまだ出来ていなくてややこしい(^^;
これも今年分(来年申告分)から青色にしようかと検討中だ。今までは事務処理が面倒(簿記はさっぱりわからない)なので白でやっていたのだけど、青にするともう少し自分有利になる。今はソフトなども色々あるし、エクセルで工夫すればできそうな(?)気もする。せっかくオンライン申告も始めることだし。

今日明日と真冬日、今日はさらさらとした雪が降って1~2センチ積もった。明日の午後も雪の予報、ではまた。

あ、あと、田中投手楽天におかえり。

 

電話が鳴っても誰も出んわ

高校生の頃、同期の部長がこういうことをよく言う子で面白かった。

昨日の夕方、録画していた「欲望の資本主義2021」という番組を見ていた。毎年正月に放送される、世界の知識人が経済や資本主義などについて語る内容で、よくわからないなりに面白いのでこの数年は毎年見ている。2020は見たかな、帰国後に再放送に気付けば見たかもしれない。

あるダンディーな学者がパソコンのカメラに向かって語っている最中に、彼のスマホが鳴り出した。その瞬間に彼がピクッと動いたので間違いない。しかし彼は冷静さを失わずに語り続ける。

切れよ!
その音邪魔だよ!
何でバイブにしとかないの!
とりあえず一瞬出て切りなさいよ!

と思いつつ見ていた。電話はなかなか鳴りやまない。よほど大事な連絡なのだろうが……。
ようやく鳴りやんだ。彼もほっとしたような顔をしている。よかったな。

番組も終わり、食事も終わり、さてそろそろ寝るかとスマホを見ると、ラインのアプリにマークが付いている。おや珍しい、と思って見てみると、「不在着信」の表示が。その時は、うーん家にいたのに気付かなかったのかなと思っただけだったが、寝てから思いついた。

その時間、そうだ夕方のその頃、私はテレビを見ていた。テレビの中で話している学者のスマホの着信音がガンガン鳴っていた。

違った。
鳴っていたのは自分のスマホだった。2階で。

気付けよ!

どうもすみませんでした。

 

今日はちょっと暖かくなったけど、明日はまた寒くなりそう。天気もいまひとつで週末にかけてまた降るかもという予報。ではまた

冬季K2 チーム・ネパールが制す

10日近く前のニュースだが、パキスタンと中国国境に聳える世界第二位の高峰K2に、ネパール人ばかり10人が同時登頂した。
2つのびっくりがある。
1つは言うまでもなく、今まで一度も登られたことのない冬季のK2がついに登られた、ということ。
2つ目は、今までは外国人登山家の陰にいた裏方さんのネパール人たちが主役として登った、ということ。
世界は変わって行くということの一つの象徴かもしれない。素晴らしいことが成し遂げられたと思う。

K2は魔の山とも呼ばれる、死亡率が非常に高い山だ。エベレストよりも遥かに難しいと言われる。それを証拠に8000m峰14座の中で冬季登頂されていなかった山はK2だけだ。それが今回ついに。しかも西欧先進国の人間ではなく、山の民ネパール人たちによって。

ネパール隊はもともと3つのグループであったのが、途中で合流して協力し合い、大量登頂に結び付いた由。その10人の中に、8000m峰14座登頂者が2人いるということも驚きだ。
ヒマラヤ登山はシェルパに代表されるネパール山岳民族の助力なしにはほぼ成立し得ない。単独登山する人もいるが、ベースまでの荷揚げサポートは使うことが多いと思う。単独以外の通常登山は登山家とシェルパが一緒に道を開き、梯子をかけたりザイルを設置したりして登っていく。商業登山になるともうほぼ完全にシェルパが道を作ると考えてよいと思う。登る際にも彼らがサポートしてくれる。場合によっては酸素も持ってくれる。やばい時には背負ってもくれる。そうして成り立ってきたのがヒマラヤ登山史である。
先進国の金持ちが世界最貧国の一つである国の民を使って記録を打ち立てたり楽しんだりしてきた、とも言えなくもない、というか言える。そういった状況に長く甘んじてきた彼らが、ついに表舞台に立つようになったのだ、と思うと感慨深い。

2020年はコロナのせいでヒマラヤの登頂数も少なかったのではないかと思う。そんな中での明るいニュースだった。ただ、同時期におそらく一緒に(?)登っていたスペインの登山家が一人亡くなっている。やはり魔の山だと思わされる。

ではまた

 

 

この冬最初の除雪車出動

朝起きると雪が降り続いていた。でもひどく積もるような降り方ではない。朝の時点で15~20cmの間。それでも除雪車が来てくれていて、町道は除雪されていた。助かる。


ちょっとこんもりと降った感じになった


湿って重い雪

春に降るような感じの雪だった。
日中一杯降り続けたが、霧雨が雪になっている程度の降りで、積雪が増えることはなかった。

店の裏にはテンの足跡が。
どこに住んでいるのかな、店ではないと思うけど。

では

朝から降っていた雪が午後になって積もり始めた。午前中は多少気温があったせいか、積もらなかったのだが。

 3時過ぎ
積もり始めた。明日一杯降るらしいので、この冬最初の本格的な積雪になるような気がする。

 1997年末から1998年1月にかけての雪
まだ土地を切り開いている状態で冬を迎え、大雪が降った。土地まで車で入ることはできず、近くに置いて徒歩で入ってみた。積雪50cmくらいだったかと。
ここから数年間は割とドカ雪が降り、まだこの道が町の除雪ルートに入っていなかった時は大変だった。除雪車が来ているところまで100m以上を除雪しないとならず、しかもまた降った。この頃はこのエリアに定住者は殆どいなかったので、大変だったなぁ。

 1997年秋
時間は戻るが97年秋、だいたい敷地の伐採と伐根がすんで、丸太を買った。近くの森林組合から、杭用のスギ丸太を。ログハウス用の丸太を買ったわけではない。高いし持てない(^^;


丸太の長さは4m


せっせと皮剥き
皮剥きの道具があることを何かで知り、町の金物屋さんで買った。とにかくひたすらに皮を剥いたなぁ。

 1998年4月頃
雪が溶けて、丸太小屋の建設を始めたところ。1本目の丸太(土台丸太?)を回したところで、まだ皮を剥いている(^^;

3段目の丸太のようだ。
おや。
1段目をぐるっと回して、2段目をぐるっと回して、という風に作ったんじゃなかったかな。写真だと、この壁だけを作っているみたいだ。仮組なのかな。


右手に数段組まれた小屋がある。その横で相変わらず皮剥きをしている。


こっちは自宅の中、壁を張っているところ。

自宅の建設と丸太小屋(店兼木工房)の建設と、同時進行中。もちろん自宅の方は大工さんだ。常時3人がかりでやってくれていて、私はそこに手伝おうとしてちょっかいかけては嫌がられていた・笑
やってみたかった、というのもあるが、一分でも早く工事を終わらせて大工さんに引き上げてもらわないと、手間賃その他各種経費がどんどんかかっていくので必死だった、というのが本音。まぁ私がちょっとやったくらいで工期が早まるわけもなく。遅くはならなかったと思うが(?)。

この頃。
あっち手伝いこっち手伝いでくるくるしていて、さらにまだ続けていたライターの仕事が入るとどこへでも行っていた。人生最初で最後のイギリス行きもこの建設途中だった。ロンドンの記憶は正直ほとんどなく、おそらく写真も撮っていない。ローラアシュレイというブランドをこの時初めて知った、くらいが覚えていることだな。何で知ったかといえば取材に行ったからだ。今もこのブランドの名前を聞くと、あああの花柄の……、と思う。

ではまた

今日はプラス

日中+の8℃くらいまで上がり、暖かい一日だった。それでも朝は氷点下9℃以下……。このくらいのプラスだと、帽子なしで散歩に行っても大丈夫。毎日こうだといいのに、明日はもう急降下。

昨日、軽井沢の図書館に行ったら、しばらく休館との掲示が出ていた。軽井沢町は長野県のコロナ警報レベル5になっているので、とのこと。今は東信一帯がこのレベルになっていると思う。借りる気満々で行ったのに空振りで残念。

で、まだまだ続く写真のデジタル化。旅の写真はかなり片付いてきて(嘘、残ポジはまだまだ手付かずだった)、今はこの土地を切り開いた時の写真などをやっている。
本当に不思議なことに、この土地の、最初の姿を撮影した画像がどこにもない。
撮影しなかったのか???
不思議で不思議で仕方がない。撮らないわけがないと思うのだが、撮らなかったのかなぁ。バカ?


発掘できた中で最も古いと思われる1枚

これでもかなり伐採を進めた後の写真だ。人が入れない、人が入った形跡のない密林だった。ここまで切り拓くのに2か月くらいはかかったんじゃないかな。なんせ手作業だったし。


その次に古いと思われる時期

太い木を残しているのは特に理由はなくて、結局ここに写っている中で今現在残っている木は1本もない。東南の角あたりから北側を見ている。


アカマツ、カラマツを切り倒す
斧持って立ってるけど、さすがに私が斧で倒したわけではない。倒したのはオット、私はポーズつけてるだけ(^^;


まぁとにかく切った切った切った切った切った


切っただけじゃダメなんさ、根っこを取らないと。ってんでユンボを借りて伐根作業。因みに、ユンボは自分の土地の中だけであれば免許なしで運転できる。


その頃住んでいた土地の中の小屋
まぁ住んでたわけじゃなくて、休憩小屋だ。ユンボを借りた時は3日間という期限があり、朝から晩まで作業するために泊まり込んだけど。テント張ってヒマラヤの山の中で寝ることを思えば天国みたいな小屋だった。

軽井沢から別の土地にセカンドハウスを移した知人がいて、その人が「軽井沢はなんだかお高く止まってる感じで好きになれなかったんですよ」と言っていて驚いたことがある。なぜならその人の社会的な地位ときたら、どんな人でもへへーっと頭下げながら3歩下がるくらいのものだから。そんな人が、「軽井沢はちょっと…。今のここはそういうのが全然なくてとてもいい」と言うのだから、まぁ軽井沢っていうのはそれなりの、そういう、土地なんだろうと思う。
そんな場所で、上の写真みたいな掘立小屋を建てて森を切り開いていたのだから、今思えば相当浮いていたんだろうと思う。浮いていたし、喧嘩売ってるに近いものがあったのかもしれないな。
まぁ、その知人のいた場所とこことでは、かなり雰囲気は違うんだけどね。なんせ軽井沢中心部の人は、追分なんて軽井沢じゃないって言うからね。

因みに。
軽井沢のことを、かるいざわ、って言ってる間はよそものなんですよ。
土地の人は、かるいさわ、って言うだに。


ビニールハウスの天井で寝るんじゃない!
わが家の常連になっている野良猫さん。三毛なのでメスだよと、遊びに来た友人が言ってた。こんな寒い土地で猫を捨てる人間がいるのだから腹が立つ。

アメリカ、バイデン新大統領が無事に就任。何事もなくよかったと思う。
これですこし世界が右傾化しすぎた状況から真ん中めがけて戻ってくれたらいいのだが。

ではまた

コツコツ

虫のようにコツコツとフィルムをデジタル化している。随分やったようにも見えるし、まだまだ半分もやっていないとも見える。紙焼きのフィルムは1スリーブ6枚(日本現像分)と決まっているので、それなりに捗るのだが、リバーサルは切り出しているので、3枚、2枚、1枚、というコマが分断されて残っており、これが大変。ピンセットでつまみ出してセットしなきゃならないし、そうなると誤作動も増えてやり直しが多くなる。
そもそも切り出さなかった残、はねもん、もデジタル化する必要があるのか? ということも迷いながらやっている。

そんな残ポジの山から今日はこんなの。


康定~徳格 のバス 2000年

標高5000近い峠で雪になった。徳格は四川省からチベットに入る道、川蔵公路の四川省側最後の町。外人が行ける最終地点だ。徳格では色々なことがあった、それは別の場所で書いておこうと思う。


2000年 アムドの紅原北部

バスが壊れて簡単な調整をし、いざ出発となったらエンジンがかからない。男どもが総出で押す!
伝統的なチベット服の下にジーンズを着ている、そういう時代に既にこの時入っていた。


小さな村、2000年
トラクターを改良した通称トラジがみんなの足。


四川と甘粛の境にある朗木寺という村 2000年
お寺の周囲を回るコルラ道。登っていく二人の見事なチベット服に目を奪われた。

ちょうど20年前の写真だ。この辺りも激変しただろうな。

 『約束された移動』 小川洋子

安定の小川洋子。
☆4.2 この人にしか書けない世界

 『不愉快な本の続編』 絲山秋子

珍しく男性一人称の小説。クール。頭のいいクズの話なのだが、いろんなページに自分がいて驚かされる。(性癖ではないよ念のため)
☆4.5 誰もが見ないふりをしている絶望……

明日も真冬日、最高気温-3℃の予報 ではまた

雨から雪

予報どおりで気温は高め。
昼過ぎから雨がぱらつき始め、3時過ぎにはしっかり雨。その後雪になった。

東京あたりで降るようなぼた雪。しばらく降りしきって、割と早めに止んだ。積雪はまたしてもうっすら積もった程度。

軽井沢は、いわゆる豪雪地が降る時には降らないことが多い。そうではない時、例えば関東、東京あたりに降る時に、どかんと降る。一晩で70cmが連続して降ったこともある。除雪車が来ないと閉じ込められてしまうし、自分の家から出る場所が除雪されても、その先につながらなければやはり閉じ込められる。数年に一度はそういうことがある。数日分は食料の備蓄をすることが大事かと思う。

今日もせっせと画像の取り込み。我慢比べみたいになってきたが、それでも自分の過去の旅をたどるのは面白い。

96年(おそらく)に仕事で行ったパタゴニアの写真を載せてみる。切り出してもいないスリーブからなので、過去に使ったことはないのだろう。フィルムにかなり光が入っているのは何でだろう? 惜しいカットが幾つかあった。巻き取る際に開けちゃったわけでもないだろうし、広範に渡ってあるのでそれは違うなー。?


プンタアレナスだと思う 南米最南端の町


いかにもパタゴニアという風景


常に吹く強風に曲がって生えている木


氷河の氷が崩れて湖に浮いている

 

アウトドアブランドのウェアのカタログ製作の仕事だった。カメラマンが2人、助手(にしては態度がでかい・笑)1人、ライターの私とイラストのNさん、という陣容だった。私とNさんはモデルも兼ねた。
そういう仕事の旅は記憶にあまり残らない。自分で調べて自分で行くわけじゃないから、地名だって忘れている。寒かったこと、太陽が高く昇らず常に斜めからの光線を浴びていたこと、肉以外に食べるものがなかったこと、などを覚えているくらいだ。

新製品のお披露目を兼ねた座談会みたいなものがあり、銀座の三越だったかと思う、そこのアウトドア売り場へ行った。仕事の前だったか後だったか、その場にいたら、雨合羽を買いに来た中年女性が試着室に入った。そして出てきたその人に、三越の人が、「たいへんお似合いでございます♡」とうやうやしく言っていた。なんていうことをよく覚えている。
カッパだぞ。

そうだ今思い出した。その時は、アメリカのシアトルの近くにあるマウントレーニア国立公園に行く、と聞いていた。そのつもりで当日事務所に行くと、行き先がパタゴニアになっていた。滅茶苦茶すぎる。撮影用のシューズがあるから靴は要らんというのでそんじゃ荷物にもなるしとサンダルで行ったら、肝心のシューズがなくて、サンダルでパタゴニアまで行かされたわ!
今はどうか知らないが、その頃は、そんな感じで頭おかしい人がいっぱいその業界にはいたように思う。懐かしいと言えば懐かしいが、まぁ何というか、むにゃむにゃ。

明日は気温が下がってくるらしい。この寒暖差でやられそう。ではまた

 

日中プラスになる

昨日、今日と日中はプラス気温でありがたい。こういう日もないとまじでやってらんね~。という感じの寒冷地。

あちこちに緊急事態宣言が拡大された昨日。
それにしてもいつも政府の人間が何か言う時に、「専門家の意見をお聞きして」が強調されるのが気になって仕方がない。
専門家の意見=免罪符、なんだろうな~と思う。専門家が気の毒である。この国には何かの時には腹を切る覚悟を持った政治家はいないのだろう。
それにしても、コロナで困る人がいる傍らで、コロナで太る人もいる。救われる人がいれば救われない人もいる。そういうことが社会に与える影響を思うと暗澹とする。

姪っこが陽性になったらしく、身近では初めての感染だ。首都圏にいるのでこことは危険の度合いが格段に違う、若いから学校に行ったりバイトしたりもするだろう。陽性は陽性でも症状が出ないまたは重くならなければいいのだが(家族みんな)。

 『くまちゃん』 角田光代

連作短編集。失恋の話ばかりが続く。振った人が次では振られる(逆もあったかな?)、ことの繰り返しで面白い。最後だけちょっと違った展開になって、失恋の連鎖が止まる。
☆3.5 なんてことはないんだけど面白い

 『裸の華』 桜木紫乃

怪我をして引退したストリッパーが出身地札幌に戻ってダンスバーを開く。謎の凄腕バーテンダー、若い踊り子二人、そして姉御肌の主人公ノリカ。登場人物それぞれがよく書き込まれていて見事に立っており、最後はえっと驚く幕の引き方で恐れ入った。ハードボイルドのいいのを読んだ感じだ。この人が書く女はほんと強いんだよね。
☆4.5 命短し恋せよ乙女

 『森へ行きましょう』 川上弘美

同じ名前の女2人の、出生から60歳くらいまでの半生記、というのかな。パラレルワールドもの、らしい。あの時別の道を選んでいたらどうなっていただろう、ということを見せてくれるというか。最初は交互に繰り返される同じ名前(漢字とカタカナ)の二人の話にちょっと辟易し、これが最後まで続くのかと、読むのやめようかと思ったが、案外読めてしまった。
タイトルの「森」は何かの拍子に森へ入り込んでしまう、というような言い回しで使われていたが、むしろ生まれた時からずっと森の中、なんじゃないかと思った。最初の10年くらいは親またはそれに代わる大人に手を引かれているけれど、自分がその手を振り払うのか、親が離すのか、不可抗力で離れるのか、いつの間にか一人で歩いている。誰かと出会ってたまさか一緒に歩いても、それは道と道が並行しているだけで、一つの道を一緒に歩いているのとは違うのだろう。なんて思った。
☆4.0 そいつと結婚するのだけはやめろルツ!

1966年生まれの女を描いた小説で、結婚か仕事かどちらか選ばされた世代だ、というような描写があった。うんうんそうだった、と思った。私が結婚するすこし前、当時出入りしていた出版社に行くと、顔見知りの編集者が「聞いたよ、結婚するんだって? 残念だなぁ、ゴトーちゃんとは一度仕事してみたかったのに」と、喜色満面で言ったのを思い出す。「え? 結婚するだけですよ?」と言った私に、「いやいや、仕事できなくなるでしょ」と返されたっけね。その頃、結婚はともかくとして、出産しても続けられる仕事なんて、公務員か教員か、くらいだったと思う。会社員でも有能な人だったらできたかな?
つうかまぁ、この編集者とのエピソードは、単に私が疎んじられていた、ということなのかもしれない。でも当時は確かに、女は結婚したら辞めるものだった、と思うのだが。
今はどうなんだろう、よくなっているといいな。

昔の写真


プモ・リ  1990年11月

当時ちょっとハマっていたモノクロの写真。今はデジタルでモノクロに加工するのも簡単だけど、当時はモノクロフィルムを使うしかなかった。リバーサル、カラーネガ、モノクロネガ、と3種類のフィルムを持って旅をしていたのだな。大きな白い山の手前に黒い三角が見えるが、これがカラ・パタール5545m。エベレスト街道と呼ばれるトレッキングルートの終着点がここだ。私は89年3月に続く2度目のエベレスト街道で、やっとここまで到着した。
おそらくこのモレーンを乗り越えて少し行ったところがゴラクシェプ、当時は簡素な小屋が2つあるだけの小さな小さな場所だった。

ではまた

雪1~2センチ

予報通り雪になったけど、うっすらと積もった程度で済んだ。よかったよかった。
今日もそんなわけで真冬日、自宅2階でせっせとフィルムのデジタル化を進めた。
使っているスキャナーは、マウントしたポジフィルム(リバーサルというのが正しいのかな)は4枚、スリーブのままだと6枚、が一度にスキャンできる上限だ。日本で現像したフィルムはほとんどが1スリーブ6カット。海外で現像したものの中には1スリーブ4カットなどというふざけたものもある。
セットし、蓋を閉め、いったん読み取って、それから本スキャン。終わったら取り出して、次をセットし、同じ作業を繰り返す。
たいした写真じゃないし、大きく引き伸ばすこともないと思うから、カラーフィルムやモノクロ(一時期はまった)は300dpiで、リバーサルは1200dpiで取り込んでいる。もっと上で取り込んだ方がいいのはわかっているが、膨大な時間がかかるので、妥協も必要だと思う。

そうはいっても時間がかかる。機械のそばにずっと付いていないと進まない。細切れの、1分とか2分とかの時間がたくさんある状態。
ネットでぼーっと何かを見ていることが多い。
今日はアゼルバイジャンの地図を見ていた。そういやみゆきさんの歌にあるな~と思ったのと、去年は隣国と紛争になっていて、まさに歌で歌われていたようなことが再び起きたということだと思っていたんだった。
トルクメニスタンからアゼルバイジャンのバクーという街へ、船で渡れる。渡るのはカスピ海だ。何かわかんないけどかっこいい(違
その西にあるのは黒海だ。こっちはかっこいいとは思わない、なんか怖い印象だな。
また海外へ行ける日が来たら、今までアジアを出たことがなかった(仕事では出たけど)ので、もう少し西へ行ってみようかと思ったりしている。完全な西欧社会にはあまり興味がない。興味があるのはせいぜいが、黒海沿岸あたりまでだろう。

そんな妄想をしながら、ひたすら機械の手足となっている。この冬はこれしかしないかもしれない。でもこの機会がなければきっとずっと出来なかった、やらなかったと思うので、コロナに貰った機会なのだと思うことにしよう。

明日は晴れて、日中はプラスになる予報。ではまた