石尊山の途中まで・・・

相変わらず3歩進んで3歩下がるって感じの毎日です。
更年期は色々な不調が出る時期、受け入れて少しずつ、ですね。

  きれいな真っ白いきのこ

今日は薬を飲まずにいられそうだったので、午前中に石尊山の途中まで行ってみました。色々なきのこが生えていて、食べられそうなものもちらほら。
でもきのこはまったくと言っていいほど知らないのでとりません。
放射能も完全にセーフになったのかどうか知らないし、危険を冒す必要はどこにもないので。

その後ちょっと調べてみたら、まだ採取販売摂取自粛中でした。肝心なデータは軽井沢町に関しては平成27年を最後に公表されていません。おそらく不都合だからでしょうね・・・。で、面白いのが、小諸や佐久あたりも野生キノコはまだ出荷規制が続いているのに、「マツタケは除く」なんですよ。マツタケは放射能を吸収しないとか、あるのかなぁ?(不思議でしょうがねぇ)

雨が続いているので、きのこハンターは多いです。

 

 帰国後の初縫製
スマホで撮ったので色がぜんぜん違う・・・! 正しいのは下の画像

これ、押え金がちょっと違うんですけどわかるかな?
「段付き押さえ」という押え金を使っています。文字通り、針の左右で段差がある場所を縫う時に非常に便利。特に私のような老眼世代とか、あるいは近視の方もそうなのかな? 見づらい部分の時には重宝します。
右側が上がってるもの、左側が上がっているもの。それぞれに中心部から針までの長さも数種類あります。これは右上がりの針1/32。最もよく使う段付きです。
って、どうでもいい話だった。


最初はいつも使っている左側のボタンを縫い付けたのですが、待てよ、この間インドで買ってきた少し大きめのがかっこいいかもと思い、出して並べてみた。
右側がインドのココナツ、左はタイ。
受け側の大きさも十分だったので、取り替えました。


写真じゃいまひとつ違いがわからないかもですが、絶対にこっちのほうがいいと思う。

因みに生地はラオス、ラハナム村の手織り木綿。実はこれ、注文品なのですが、裁断した時にうっかり織りムラを見落としまして。補修を試みましたがやっぱり気になるので、結局もう1着分経つことになりました。
その2着分でもって、生地終了~。

各国の手織り産業の衰退と価格高騰を見るにつけ、おそらくもう手に入らない部類の生地だと思います。自分自身、再びあそこに行くのはどーだろ、行けるけど、行けるのはわかってるけど、前回も売ってくれる家は1軒しかなかったし・・・。
なんて考えると、生地との出会いも一期一会で、「もう一度」ってことはない、ことのほうが圧倒的に多いなと思うのであります。

 

不時着する流星たち   小川洋子

この世と別の世の間にもしかしたらあるかもしれないものすごく小さくて普通は誰にも見えなくてでも何かの拍子に誰かの前に現れる、こともあるかもしれない。そんな異界のことを書かせたらやっぱり右に出る者はほとんどいないなと思わせる。ちょっと思いつくのは三崎亜記あたりはかなりおもしろいけど。
それにしてもこの人の小説を読む度に、日本語を母語として生まれたことを心底よろこびたいと思うんだよね。
☆4.5 短編集なので、気に入ったものとそうでもないのはあるわなやっぱり

ではまた

 

 

 

一進一退

な日々。ちょっといいかと思うと逆戻り的な。

今朝はめまいが酷くて服薬。ジャンキーになりそう。
昨日すこしPCで調べ物をしたせいか。
あるいは夜に観たインド映画のせいか。

バーフバリ・王の凱旋     
去年だったか、この前編にあたる「バーフバリ・伝説の誕生」を観て、面白かったので続編というか完結編みたいなこれを楽しみにしていたのだけど。

長い・・・・・・。
正直、飽きた。つまらないとは言わないけど冗長に過ぎる。
バーフバリの息子がバーフバリ、すべての話が最初に戻って・・・? えぇとつまり~、2度同じことが繰り返されたのか、そうではなくてオヤジの方の話を延々と観たってことなのか、こんがらがった。たぶん後者だと今は思うけど、観ている最中はずっと、前編で少年から青年になった息子の、その後の話なんだと思ってた。
CGも多用されてて、めまいには激しく悪かった!

 

   『宝島』 真藤順丈

戦争ものは今はちょっと・・・、と言いながら借りてしまった1冊。近未来ものかと勘違いした。宝島とは沖縄のことで、アメリカ統治時代から日本に返還される前後あたりの話だった。
初っ端は前に書いたとおり疾走感のある作風で期待したけれども、後半になると本筋がよくわからなくなり、最大の謎の部分もすっぽぬけたストレートみたいな感じで残念な感じが残った。そのことが意味する重大性の部分が、自分にはどうしても理解できず腑に落ちなかった。
しかし、戦後数十年後に生まれた私などよりもずっと若い世代で、しかもどうやら沖縄の人ではなさそうな? そういう書き手がこの手の重苦しいテーマをエンターテイメントとして書き切ったことはすばらしいと思う。小説として十分面白かった。
☆4 目取真俊『水滴』以来かもしれないオキナワものだった

ではまた

一部再開しました

いいち、クリーマ、そしてリンコルの新店を再開しました。
旧店はまだ少し時間かかります。

うちで扱っているものの季節性としては既に外しつつありますが、
またよろしくお願いいたします。

 

きのう借りてきた小説を読み始めましたが、垣根涼介の『ワイルド・ソウル』に似たなんとも言えない疾走感を感じています。『ワイルド~』はほんとすごかった、読んだ時は興奮した、こんなすごい作家がいたのかと思いました。ほかのものを読んでみると「ん?」だったりするんだけど、いやそれなりに面白いけど、こういう渾身の一作ってあるんだと思います。浅田次郎だったら『蒼穹の昴』、高橋なら『邪宗門』、開高健なら『夏の闇』かなぁ、もちろんそれぞれの読者に、それぞれの「この人のこの一作」があるのですよね。

また読み終えたら感想など。

ではまた

あれれ?

どうにもこうにもふわふわ目眩が収まらないので、昨日は薬を朝晩の2回のんでみました。いつもは朝か夜の1回にしていたのですが(眠くなる薬のため)、思い切って。昨夜の段階ではダメでしたが、今朝起きると少しいいような・・・。

というわけで帰国後ずっと行きたかった美容院へ行きました。シャンプーはなし。仰向けはほんと怖いので。
前髪が目にかかるとそれだけでイライラしてしまうので、さっぱりしました。よかった。

帰りに図書館に。
久しぶりです。もしかしたら1年とかそういうスパンで行っていなかったかも。
イトヤマ大先生の新作があるかな? お、あるある、借りよう。
と、ろくに見もせずに借りてきたはいいのですが、
「あれれ? なんか見覚えがある。うーん、雪かきか。読んだことあるじゃないか!」
てなことで、既に読んだ本を借りてきてしまいました。がっかり。

そういえば書棚を見ていて思い出したんだけど、昨夜はどこかで本を探している夢を見て、その時に「浅田次郎浅田次郎」と呪文のように唱えていたんだっけ。
浅田大先生も相変わらず次々と書いておいでのようで、未読の背表紙のものを何冊かパラパラしてみましたが、
「う・・・、今は戦争ものはつらい」
「さりとて現代ものもなぁ、この路線はつらい」
とかで、借りずじまい。

小川洋子さんと、あと今まで読んだことのない作家の小説が新刊のところにあったので、借りてみました。
体調と相談しながらですが、そろそろ復活したいです。ではまた

ブーイングやめて!

気がついてチャンネルをWOWOWに変えたときにはもう表彰式になっていて、セリーナさんが「ブーイングやめて!」と言ってました。
最初は、黒人である彼女に対してブーイングがあったのかなと思いましたが、そうではなくて、勝ったオオサカさんへのブーイングってこと? それとも審判や大会運営側へのブーイング?
試合中にセリーナさんがキレまくったそうで、後味の悪い試合だったとか。私はテニスはまったく詳しくない(点の数え方も知らない)のであれですけど、とにかく表彰式でブーイングをするというのはよくないよねぇ。テニスのファンってお行儀がいいのかと思ってたけど違うんだな。

と、そんな話はどうでもよくて、すごかった、オオサカさん!
優勝おめでとう!

さて私はですが、金曜日になんとか歯医者に行ったはよかったけど、歯医者って椅子倒したり起こしたりされるんだよね、ちょうどその日は特に「仰向けアウト」だったので、かなりフラフラになりました。予定していた美容院は取りやめて、知人の別荘に台風の被害チェックに行きましたが、思っていたよりぜんぜん被害(庭中に枝が落ちているかと)はなく、安堵。
結局まだ休んでおり、土曜日にちょっと思いついてPCのモニタの高さと位置を変えてみたり。今日は以前よく犬を連れて行っていた散歩コースに行ってみたりしました。近くに水道管を通す工事をしていて、道が変わっていてちょっとびっくりしました。

 

 あと、こんなの買った
出発前に既に壊れていた仕事場のCDラジカセ。親のところに置いてあったのもチェックすると動かなくなっており、新しく買いました。仕事をしながら聴くためのものなので、高機能なものは求めておらず、また、繊維を扱うので常に繊維ボコリがある中での作動ですから、高価なものも置きたくない。で、こんなの。もう「カセット」はないのでCDラジオ。驚くほど軽く、すぐ壊れそうな造り。もうちょっとしっかりしたものを作ってくれればいいんですけどね・・・。
今日はこれで、(知ったかぶりの)大相撲中継を聴きました。
NHK、相変わらずまったく映りませんよわが家は。だから御嶽海の活躍も見ることができないんですよ。ほんと、この状態で集金に来るNHKって何なの? もちろん映らないんで払ってないけど(それでも法的には払わなきゃいかんのでしょうけど、だって、映らないんだよ?物理的に。受像機は持ってるけど映らないんだよ?・しつこい)
いまわが家で映る局の平均打率(映る確率)は、テレ朝とTBSが6~7割ほど、NHKとフジは0~1割、日テレも2~3割。衛星以外何も映らない時もしょっちゅうです。ほんとひどいな~。

 

色々とやりたいことはあるのですが、ふわふわ目眩も侮れない。
まぁ焦らずに、いこうと思います。
ではまたです

 

ラダック・ザンスカールの旅その2

リアルタイムでは帰国してそろそろ3週間に近くなってきました。
不調の原因はどうやら低血圧にもあると気が付き、こりゃ困ったと思っているところです。高所ではとにかく心臓がバクバクと働き、もともと心拍数は多い方なのでさらに激しく負荷をかけてしまいました。その反動なのか? 今は心拍数が減ってそして低血圧・・・。高度の影響は、下山後もあるのではないかなぁと思いますがどうなんでしょう?

 

 

2018年7~8月にかけて、インド北部のラダック&ザンスカール地域を旅しました。
この地を訪れるのは1993年以来25年ぶり。
激変した地域に驚きながらの旅でした。

パンゴン湖へ! でもその前に

高所順応も兼ねて行こうと思っていたパンゴン・ツォ。因みに「ツォ」とは湖のこと。
レーの町で代理店を何軒か回り、いちばんまともそうだった店に決めました。ツアー費用はどこも基本同じで9000ルピー。これは車1台を運転手付きで借りる金額と考えてください。
安く行きたい場合は、相乗りツアーに参加すれば安くなる。9000を人数で割るわけですからね。または公共バスか、代理店を通さずにタクシースタンドでドライバーと交渉すれば安く行けるかも、試してはいないけど。
私はもうロートルですし、長い道中、なれない英語でしゃべったり笑ったりしなきゃいけないのは無理^^; と判断し、夫と2人だけでチャーターすることにしました。
食事代や宿代は別です。ただし運転手の分まで払う必要はありません。
あと必要なのがインナーラインパーミット、国境地帯に入るための許可証が必要で、これは代理店で650ルピーでお願いしました。あちこちで聞きましたが、600~750くらいの値段が多かったかな? 何軒か聞いてまわれば相場はすぐにわかります。

出発当日、朝5時半にお迎えが来ました。
パンゴンの前に、途中のティクセ・ゴンパに寄るため、こんなに早く出発することに。
早朝のティクセ・ゴンパ屋上から南方向を
後半でチャレンジするストックカンリもこのどこかにあるはずです。


美しく整えられている中庭というか? 屋上みたいな?


喇叭を吹く僧侶2人。服装とかぶりものは立派だけど足元はサンダルだね。生活感があっていい。
勤行が始まるぞ~~~
っていう合図かな。


語り合う小坊主と青年僧
川に沿った部分がオアシス状に緑で、そこを離れると一気に荒野と化す。水の重要性がわかる。


密教っぽい様々な仏画が描かれている。
密教ファンっぽい西洋人が多数来ていた。


チャン・ラ(チャン峠) 標高5360m

ティクセからは峠道を延々と登ってチャン・ラに到着。ここは標高がバカみたいに高いので有名。5360、確かに、エベレストのベースキャンプに近い標高だ。
特に高度障害はない。順調順調。
ここに高度順応のためだけに来る人もあるらしい。

そしてパンゴン・ツォへ


途中の原っぱでマーモットがお出迎え。こんなに逃げないマーモットは初めて見た


残念ながら曇ってますが、パンゴン・ツォに到着。
映画「きっとうまくいく」のロケ地になったとかで、インド人観光客がものすごい数押し寄せていました。避暑地でもあり、後で聞いたところ、新婚旅行にも大人気なんだって。


ヤクに乗って遊ぶシークの方たち

ここではテントに泊まるか、普通の民家っぽいのに泊まるか、どちらかを選びます。私たちはテントには興味がなく、民泊に。1泊2000ルピー(2人で)、レーの倍もするぜ!
ただし一応2食つき。


晴れてきたのでまた湖岸まで行ってみた。こっちの方角にずんずん進めば、中国に入る。


テント村


宿の屋上(平屋だけど)から見た湖と、湖岸のテント群


湖と反対方向は山

実はこのパンゴン・ツォ、湖そのものを訪れたのはこれが2度目です。
1度目は、1992年6月、中国側チベット西部をヒッチしたトラックで走っていた時。


これがその時のパンゴン・フー(班公湖)。運転手がトラックを停めて休憩してくれて、その時に「この湖の半分から向こうはインドなんだぜー」と教えてもらいました。この水で手や顔を洗いましたっけ。


その時のわたくし。
輝かしいISUZU号。牽引してもらわなきゃエンジンかかんないISUZU号!
標高5000以上にしては薄着に見える。下はジャージだし。
この時の運転手、危険を冒して乗せてくれたいい人だった。元気かな。

♪ 時は流れて 時は流れて そうして私は・・・♪  ↓


中国語で話している若者たちがいたので声をかけてみたら、台湾からの旅行者で、写真を撮ってくれました♪
そりゃ変わるよ、26年も経ったんだから。髪型は変わんないかな、白髪は増えたけど!
まぁあれだ、5000mの地にいるにしては顔も浮腫んでないし、高所順応は順調ってことで。

 


こんな花がたくさん咲いていました。これはフウロの仲間だねぇ


これは帰り道の川のところに咲いていた花、なんだろう?


パンゴン・ツォへの往復はひたすらの悪路走りです。とんでもない悪路です。そこを運転手が突っ走るので、本当に疲れました。助手席にいたら架空ブレーキ踏みっぱなしだと思う。
運転が下手なわけじゃないけど荒い、レースじゃないんだからと突っ込みたい。


帰り道に寄ったお寺の灯明堂
「日本の方ですか」と声をかけられて振り向くと、南インドっぽい感じの若い男性が。
東大に国費留学していたのだそうで、本当に正しい日本語を話せるので驚きました。なんでも環境都市計画とか、そういった方面の研究をされていたそうです。インドでは最も重要な分野の一つだと思う。ぜひ若い人たちがインドを変えていってほしい(切に願う)。

 

パンゴン・ツォ。
高地にある湖で、高所順応のために行くならとってもいいと思います。ただし、トレッキングのための高所順応なら必要ない、トレッキングそのものが高所順応だから。
非常に観光化されており、そういうのがちょっと・・・、って向きには勧めない。
ただし、代理店で車をアレンジするのでなく、公共バスを使って行き、この観光エリア以外で泊まったりできるとすれば、よさそう、おもしろそうだと思う。公共バスは一応、あることはあるらしいです。
私は26年前にチベット側で手を洗いながら、
「いつかインド側にも行って手を洗いたい」
と思った、それを実現するためだったので、できてよかった。
気がすんだ。


ああ気がすんだ、気がすんだ

 

 

 

まだ不調

どうもめまいが続いてしまい、体調不良で休みをどんどん延長している今日このごろです。
めまいは、持病のぐるぐる系ではなくてふわふわ系。
ですから完全に何もできないってほどではないんだけど、でも気持ち悪い。
気温、騒音等の環境、そして標高、これらがかなり激動したここ2ヶ月だったので、もうしばらくかかるかもですね。

 

そんなところに、みゆきさん情報が。知人のブログによると、1/30~2/27の間で、20公演だそうです。みんな厳しい厳しい言ってたのはこれだったのね。
夜会「リトル・トーキョー」 だそうです。
一つうれしいのは、開演時間が1時間早くなった。これは! 最終に乗れるかもだよ、うーん、赤坂というのが微妙だけど。
あと、共演者が今回は中さんじゃなくて香坂さんという人なのね。夜会にはいろいろ出ている方だけど、そんなに歌う印象がないので、みゆきさんの歌う分量が増えるのかなぁとか、ちょっと思ったりしてみました。

しかし、よりにもよって厳寒期のみという・・・。
はぁ。。。

ではまたです

大豆は大事、かも

帰国後の不調がなかなか収まらない・・・。
めまい・肩こり・吐き気の3点セットも襲ってきたり。
なんか変だな・・・。

あ、一時期収まってた更年期の症状なんじゃ???

考えてみれば、インドにいた5週間、まったく大豆を食べておらず。
インドで大豆。
食べられているのかな?
ダルという豆料理は常食されていますが、これはレンズ豆ですし。
豆乳も見たことがない。中国、タイではよく見かけますが。

収まっていたので、考えもしなかったけど、サプリなどで対策すべきだったと反省。これから気をつけよう。

ではまた

ケルサンのこと(旅行記のおまけ)

今回、ラダックに出かけるにあたっては、3つの大きな目的がありました。

1つは、念願だったザンスカール地方へのトレッキング
次は、こちらも念願の6000m峰への挑戦
最後に、25年前に出会った亡命チベット人ケルサンを探すこと

今日はケルサンのことを書こうと思います。

 チャパティをこねるケルサン
1993.9

25年前の9月、ラダックを旅しました。
その時は、ダライ・ラマさんにインタビューするという仕事が入り、せっかくインドに行くのなら仕事の前にラダック~ザンスカールをトレッキングしたいなと思って出かけたのでした。
実際に向こうに着いてみると、雪がもう降っているのでザンスカールは無理だと言われ、ラダックのマルカ谷というところを歩く9日間のトレッキングをすることに。
いま思えば、雪が~、というのは嘘だったかも!
ザンスカールは行くのはいいけど、帰ってくるのがすごく大変。人間だけなら車を乗り継げば帰れるけど、馬も行ってしまうと同じ道を戻らないと。それは大変だよね・・・。
結果、マルカ谷でも十分楽しかったので今となってはどうでもいいです。

その時にアレンジを頼んだのは、ゲストハウスの主人でした。当時、レーの町に旅行代理店なんてあったかな・・・? 記憶にはない。
主人が紹介してくれたのが、ケルサンでした。
事前には会わなかったと思います。当日、車で出発地のスピトクまで連れて行ってもらい、そこで馬と共にご対面。馬は2頭だったかな。3頭いたかな。途中まで一緒にケルサンの弟と馬数頭、そしてスイス人のカップルと歩いて行きました。とはいえ行動中はまったく別々で、キャンプ地が同じってくらいでしたが(私たちが遅かったせいかと)。

 ケルサンのテントの中

私たちはドーム型のテントを持っており、ケルサンは簡易な布テント、でもけっこう広いやつを持ってきていました。炊事もこのテントの中で。ケルサンは何でも作れる名コックでもありました。
これは何かスープのようなものを煮ているところで、投入するスパイスの量についてわたくしと揉めているところです(笑)
朝はチャパティとお茶。昼はヌードル。夜は何だっけ? カレーとか、野菜炒めとか、チョウメン(焼きそば)とか。

トレッキングが終わった後、ケルサンに誘われて自宅に遊びに行きました。
チベット人亡命キャンプの中にある家でした。バスに乗って行き、帰りはトラックをヒッチしてダンプの荷台に乗って帰りました。亡命キャンプとはいえテントのわけではなく、みんなちゃんとした家でした。

 ケルサン一家
左から長男、次男、ケルサン、長女、弟の娘、長男の奥さん、奥さん

いや~~~、暗い写真だ。

実はケルサンは英語をほとんど話せません。昨日も今日もトゥモローだし、自分のことはなぜかマイだし。でも、なんとかかんとかギリギリ通じる(というかお互いにエスパーしあう)ことは通じました。川、渡る、行く、お前、俺。彼が言えたのはこれくらいだけど。

家に行くと、長男のお嫁さんと、弟の娘さんが英語を話せたので、ケルサンの話はほとんどがこの二人から聞いたことになります。
彼は西チベットの遊牧民で、ダライ・ラマが亡命した後を追って自分も亡命。なんと言っても西チベットからインドはすぐですから。もちろんそのルートで越えられたかは不明だけど。
亡命後、ケルサンはインド軍に入ったのだと思います。あるいは、亡命チベット軍なのかもしれない、このへんは今回聞いた話と矛盾があってどちらかわからないです。25年前はインド軍と聞きました。
そして落下傘降下部隊に所属し、対パキスタン戦争の時に降下して負傷し、除隊したそうです。わずかに足に後遺症が残りました。除隊後は亡命キャンプに戻り、トレッキングの馬方などをしながら家族を養っていました。

 これまた暗い!

一泊してお別れするときに、カター(チベット仏教的に大事なもの、貴人に捧げたり、友人と分かれる時に贈ったりする)をもらいました。
左端に写っているのは、ケルサンの奥さんのお父さんだそうです。

料理するケルサンと長女、このとき13歳だったと思います。

 

ケルサンのことは、本を書いたときにダライ・ラマさんとほぼ同じ分量を割いて書かせてもらいました。雑誌が出たとき、本が出たとき、それぞれそれを郵送し、ページの間にドル札を挟んで、ダメかもしれないなと思いつつ送ったのも思い出です。いずれの時も奇跡的にケルサンの手元に届き、「ちゃんと受け取ったよ、ありがとう」と、おそらくは長男嫁の代筆で手紙をもらいました。

すぐにまた行くつもりだったのですが、その後、私自身の生活がややこしいことになり、そうこうするうちに軽井沢で商売を始めてしまったので、夏に旅に出ることが無理になり、そうして流れた25年という年月。
ウメが昨年亡くなり、ここでの商いも縮小気味なので、思い切って行くことに決めたのが今年の早春。ケルサンに手紙を出しましたが返事が来ません。よくよく調べてみると、ラダックでは2010年に大きな洪水があり、その時に最も被害を受けたのが亡命チベット人居住区のチョグラムサルだったとか。ケルサンの住所もチョグラムサルでした。

これは・・・・・・。
ケルサンの家も被害にあい、それで手紙が届かないのではないか。
もしかするとケルサンの家族も離散しているかもしれない。
最悪、全員が亡くなったということもありうる。

そう思いながらの、今回のラダック行きでした。

長いけど続けますね。

チョグラムサルに行くには、レーの町のはずれからミニバスに乗って行きます。その乗り場がわからずに立っている人に声をかけると、ここがそうだと。そしてそこからは、他の場所に行くバスも出るから、間違えるなと言われました。

 バス駅への道

 バス駅近く
この近くからチョグラムサルなどへ行くバスが出る

その時私は、ケルサンからもらった最後の手紙を持っており、そこには彼の住所が書いてあるわけなのですが、気になることがあってその人に尋ねてみることに。
「この住所なんですけど、チョグラムサル、と、アグリン、と書いてありますよね? アグリンとチョグラムサルは同じ場所ですか?」
「いえ違う、逆方向になるわよ。これではどちらかわからないけど・・・」
そこへ来たのがアグリン行きです。一か八か、最初にアグリンに行ってみることにしました。

バスの終点まで行き、あとは人に聞きながら聞きながら歩いていきました。
どうやら、ケルサンの家はチョグラムサルではなくアグリンにあるようです。

 アグリンの町外れ

最後に聞いた雑貨屋の店主が、なんとケルサンを知っているとのことで電話をかけてくれました。そして、「ついてきなさい」と、案内してくれることに。

でも、道すがら、

「ケルサンは亡くなったよ、今年の5月らしい。ケルサンの娘がそう言ってる」

と、聞かされました。
細い路地をたどっていった先に、ケルサンの家がありました。見覚えはありません。こんなに細い路地にあったとも思えません。町並みはすっかり変わっていました。
路地と庭の間にも扉があり、そこを開けると中に数人の人が待ってくれていて、ケルサンの長女と奥さん、そして孫であろう子供たちがいました。

ケルサンは、今年の5月に86歳で永眠したそうでした。
最後の2ヶ月は寝たきりの状態だったそうで、大変だったろうなと。病院には入らず、自宅で家族に看取られたそうです。それはそれで、よい最期だったのではないかと思いました。
ケルサンの奥さんはまだ歩ける状態で(年齢も71歳のはず)、元気でした。娘一家と共に暮らし、水害の被害もなく、ひとまずは安堵しました。
娘婿さんが失業中で暇だというので、一緒にザンスカールのトレッキングに行くことにしました。ケルサンが存命であってもなくても、家族に何かしらのことをしたいと思っていたので、そういう展開になってよかったです。

 ちょっと変な色だけど・・・

左端が私で、その横がケルサンの奥さん、長女、その子どもたちと旦那さん。娘婿さんも亡命チベット軍上がりの元兵士です。
娘さんには面影がぜんぜんないなぁ、やはりこの高地で暮らすのは厳しいことなのだろうと思いました。

 ケルサンの一番いい写真

もし、ウメが亡くなってすぐの時期にでも出かけていれば、ケルサンに会うこともできたし、彼の最後の1年に対して何かしてあげられることもあったかと思います。軽くて暖かい布団とか、そういうことですけど。
でも、そんなことを言ったってしょうがない。ケルサンの家族に会うことができて、最後の日々を聞くこともできた。ガイド料としてお金も置いてこれたから、奥さんのために何か使ってくれるだろうと信じてます。

ケルサンは、真実誇り高き男だった。強くて、やさしくて、茶目っ気もあって、そしてぐちゃぐちゃ言わない男。彼の英語力であったとしても、言えたはず、言いたいと思ったなら言えたはずです。チベットはひどい目にあっている、自分もひどい目にあっている、中国はひどいよな、(だからそんな俺に何かしてくれるよな)、と。
でも彼は一度も、10日以上彼と一緒にいたのに、一度もそんなことを言わなかったし素振りも見せなかった。
だから大好きだった。

ケルサンが、おそらく70歳前後の頃に、チベットとの国境に出かけていって向こうにいる兄弟と対面した時の写真を見せてもらいました。
チベットとの国境・・・・・・。
国境線があるのは知っているけど、いわゆるゲートがあって公式に行き来できる国境がラダックにあるのかな? もちろん第三国人に対してはありませんが、彼らだけのそういうものがあるんだろうか。わからないけれども。
風景としては明らかに西チベットの荒涼たるものでした。そこに、ケルサンが兄弟と並んで立っている。
ケルサンは、チベットの伝統的衣装であるチュバを着て、これまた伝統的に皆そうしているように右袖を抜いています。中には真っ白なシャツ。足元はチベタンブーツ。
かっこよかった。
ズボンにセーターのケルサンしか見たことがなかったから、本当にその姿はかっこよく、凛々しかったな。写真、写させてもらえばよかった。

今回の旅は、いろいろな意味で自分にとって一区切りになる旅だと思って出かけましたが、ケルサンの家族に会って、一つの区切りとなりました。長いこと、ケルサンのこと、ラダックのことは折りに触れ思い出していたし、手紙の一つもと思いながらなかなかできなかったので。
あらためてケルサンに感謝。彼は私のチベット歴の中で、きらきら光る星だったなと。もう一つ光る星があって、それは法王さんです。法王さんとも今回ちょっとしたエピソードがあるんだけど、それはまたいつか。

ではまたです

 

ちょっとめまいが

うーん。
さすがに疲れたんだなぁと思います。
1週間経って、ようやくお腹は収まりつつありますが(お粥&雑炊生活中)、めまいは帰国後から少しずつ出たり消えたりしながら、今日はちょっと強めです。夕食後に一応特効薬の酔い止めをのんでみました。

そんなわけで写真を見るのはつらいので、記録の方は先延ばし。

今回の旅を終えて帰ってきて、上記以外で体の変化がいくつか。

やせました。それも、帰国して数日後に5キロマイナスに行きました。
向こうにいた間はそれなりに食べていたせいですね。
登山でもっとやせるかと思ったんだけど、夫によるとB.Cでもモリモリ食べていたそうなので。B.C4980mですけどね(笑)
ガイドが「食べてください!」と言ってたせいもある。スタミナ大事。

五十肩がだいぶよくなりました。
これにははっきりと理由が。
トレッキングや登山中、何度か、滑落してみたり、危険な場所の通過があったりし、そのときに、どうしても右腕を引っ張ってもらわなければならない状況がありました。「右は五十肩だから左でお願いします」とは言えない、物理的に無理な状況。ぐいぐい引っ張られ、その時は痛かったけど、あとになったら可動域が広がったという。
これは・・・、怪我の功名でした。

一時期収まっていた更年期の症状が復活しました。
著しいのはホットフラッシュです。
かなり過酷だったので、刺激になっちゃったのだと。

生きているからいろいろある。
ぼちぼち元気になっていきたいです。
みなさんも夏の疲れが出ませんように(まだ夏か・・・)
ではまた