東京とんぼ返り


祖師ヶ谷大蔵駅 昔の面影はなく、ひとり浦島太郎になる

往復JRバスで新宿バスタ着発。
20と数年ぶりに小田急線に乗り、祖師ヶ谷大蔵駅へ。生まれ育った成城の隣の駅で、ここまでは中学の学区だったし近いし、当時の行動範囲の中でした。
降り立った祖師ヶ谷大蔵は高架駅になっており、昔の面影は少なくとも駅舎には全くない。商店街をちょろっと歩いてみたけど、チェーンの飲食店に飲み込まれた感じがすごくした。地方だけでなく都市部も、チェーン店でなければ生き残りが難しいんだなと(もちろん普通の店もあったけど・・・)。よく通ったはずの図書館にも行ってみたけど、ぜんぜん見覚えがなかった。移転する前の図書館の記憶が(子供時代だったから)強すぎるのかな。

昔。
25年くらい前、私がまだそのあたりに住んでいた頃に一緒に仕事をしていたカメラマンが亡くなって、昨日はお通夜でした。
自宅が近かったこともあり、当時は「小田急ライン」とか勝手に呼んでいた「仕事つながり」がありました。祖師谷に彼。成城に私。狛江に編集者。それぞれフリーで。でも私は半人前で。いつも仕事を回してもらっては一緒にやらせてもらっていた関係でした。
亡くなった方とは国内でも山やスキー場の取材に何度か。
そしてネパールに1度、取材で行きました。
今にして思えば、彼にとってはそのネパール行きはかなり気合を入れた何かであったのだろうなと。転機というか。仕事の枠を広げるとか。そんな取材だったのではなかったかと思います。
残念ながらその取材は日の目を見ることがありませんでした。約束していた雑誌の休刊が決まり、最終号までのスケジュールに割り込む余地がなかった。
私にとってはもう何度も入っていたネパールであり、その仕事がポシャっても「うーんしょうがないか・・・」ですませてしまったけれど、彼にとっては本当に残念だったのではなかったかな。私にもっと力があれば、何とかできたかもしれないけれど、できなかった。

当時の出版関係者がたくさんみえているだろうな、会いたくない人もいるなと思いながら会場に着くと、真っ先に目に飛び込んできたのが狛江の編集者さんでした。その隣にはみつを画伯。よかったほっとしました。
ところが編集者N氏はチノパンにポロシャツにスニーカーという、通夜らしからぬ服装。山岳関係者はちょっとTPO外した人が多い(人のことは言えませんが)けど、それにしてもどうしたんだろう。まだ山の仕事をしていて、その帰り? と思って訊いてみたら、足に障害を負われて、歩行もままならないと知らされました。
ほんとうに驚きました。
もちろんお互いに年を取り、顔だって多少は変わっているけれども、声も話す内容も昔と何も変わらないのに。

会場を辞した後、N氏を車で送っていくという画伯に誘われて祖師谷まで送っていただくことに。ところが一方通行だらけで道に迷い、結局、成城に向かうことに。母校砧中学の横から駅まで、思わぬ道行きとなり、もう二度と行くことはないと思っていた成城の駅に。ここも高架になっていて、ほんと別の町。

東京を離れてから、長いこと存在していた境界線を、思いがけない理由で越えた、不思議な一時でした。生まれ育った場所(色々あったので鬼門だった)と、出版という世界(こちらは自分が自然消滅)。越えたとは言っても、一瞬でまたこちらに戻ってきたわけで、そちら側に居場所があるかと言えば当然ない。靴を脱ぐ場所はかろうじて空けてあった、のか、いややっぱりなかったのか、どっちかな。わからない。
年に不足がたくさんある人が亡くなったことと、昔散々生意気を言った、仕事場を片付けろ納期を守れ締め切り当日に泣きを入れてくるな、と本当に言いたいことを言って甘えていた人が大変な状況になっていたことのおどろきで。本当のことではないような気がしてならない。

バスタに着いて、きっぷを買い、椅子を確保し、そうだ会場でもらった封筒には何が入っているのだろうと開けてみたら、ポストカードが3枚。最初のは鳥かペンギンの写真(メガネかけてなくて)、彼はこういう撮影もしていたのかと思いながら次をめくると、見覚えのある写真で思わず「あっ」と声を出してしまいました。
彼と行った雨季のネパール、アンナプルナ西側のジョムソン街道で、聖地巡礼に向かうインド人の行者たちが、黒いこうもり傘をさして立っている写真でした。オレンジ色の衣をまとった行者たちは照れたように笑っていたり、軽く片手を上げていたり。一緒にいた私には撮れない、彼だから撮れた写真でした。

合掌

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