梅雨の晴れ間?

今日は雨は降らずときどき陽が差す一日。洗濯物も外に干した。
キジトラ君は相変わらず時々姿を見せる。朝に夕に来る日もあれば、雨が降ったりすると1日来なかったり。どこかに「本家」ではないが、彼の居場所があることは確かだと思われる。彼? たぶん彼だと思う。

 『銭湯の女神』 星野博美 2001年
写真家であり作家でもある人のエッセイ。わざわざ閉架から出してもらったのだが、読み始めたら「あ、既読だった」と気付いた(^^; でもおもしろかったのでまた全部読んだ。
この人は香港返還を書いたルポで大宅壮一ノンフィクション賞というのを取っている。たぶん読んだと思うが……記憶が確かではない。最初の作品『謝謝チャイニーズ』がとてもよくて、図書館で借りた後で買った。
私のほぼ11カ月後に東京に生まれている。共有している空気のようなものが多いのか、共感することが多い。良作だと思う(えらそう)。

 『戸越銀座でつかまえて』 星野博美 2013年
上の作品の12年後に書かれたエッセイ。週刊朝日に連載されていたものも含まれているそうだ。
フリーランスの文筆家・写真家として生きてきた著者が、行き詰って実家に帰る前後のことが書かれていた。飼っていた猫の話や、地元商店街の話などが綴られる。八百屋でバナナを買ったら見事に「いちばん古くて黒くなっているやつ」をつかまされてしまう話が面白かった。

エッセイなので2冊とも☆はない。
私の11カ月くらい後に生まれ、学年では1年下に当たる。戸越銀座に土地勘はないが母が隣の荏原中延の保健所に勤めていたから何となく知ってはいる。絲山秋子もたしか66年東京生まれだ。生まれてからの10年15年20年、ほぼ同じような空気の中に居たということは、原風景の一部を共有していることになるのだろうか。自分がこの二人の作家に感じる「近さ」の根っこは、案外そういうこともあるのかもしれないと思った。
バナナの話は、この人大学時代に中国留学経験がある、私からしたら「筋金入り」の人なんである。そんな人が「わかっているのに」そのバナナをつかまされ何も言えない、というところに何とも言えないペーソスと親近感を感じた。

※「親近感」を「感じる」は間違いなんだけど、その前に「ペーソス」という単語を入れちまったので、うーんどうしようと思いつつ「感じた」にした。もっと別の書き方があると思うが強引にこのまま。

帰る実家があってよかったね、と思った。皮肉でも嫌味でもない。こればっかりは……、それがある人、ない人、百人百様だろう。形としてあったとしても帰れない人だっている。帰らない人もいる。この人は帰れた。よかったと思う。
※この時点だから「実家に帰る」=「親の庇護の下に戻る」だけど、ほんの数年後には「親を看る」側になるような、そんな微妙な話でもあるとは思うのよね、だけどこの時点ではこの人は「逃げ帰る」べきで、そうできたことをご本人もよかったと思っておられるので、私もよかったと思えばよいと思う。

自分にそういう場所があったらどうだっただろう……? とすこし考えた。実家がそのまま存続したとしたら、親との関係性もずいぶん違ったものになっただろうと思う。ここに住むということもなかったかもしれない、東京に住み続け、出版関係の仕事を続ける、続けようとした、かもしれないな。

人生、いろいろ (急に島倉千代子)
ですね。

明日は雨の予報、ではまた

 

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