本の話など


午前中、青空がのぞく。8月だもんなぁ。しかし午後には曇り、夕方には雷雨。まったくね。

♪ あきらめました、あなたのことは
もう くすりも かけない  ♪

トマト、大部分を処分しました。疫病だと思います。回復の見込みはなさそうだったので、それなら早く処分して次に行くべし、と、覚悟を決めました。
それにしても、トマトはやっぱりダメだなぁ、うちの畑では。雨除けをするスペースが難しいし。来年はプランターで作ろうかな。というか、あきらめる?

さて。
先日いらしたお客さん、といってももうお客さんと店の関係よりは先に進んでいる方ですが、その方に真顔で聞かれました。「読む本をどうやって選んでいるんですか?」と。
前にも書いたことがあるかもしれませんが、私はほとんど新刊本を買って読むことがなく、読書の98%は図書館に頼っています。今は新聞を取っていないので、新刊本の情報もほとんどありません。書評なども読む機会は全くないと言っても過言ではありません。もともと書評はあまり好きではなくて・・・。
そんなわけで、図書館で棚をはっしと睨みつけ、応答のある本を探している、のが現状です。小さな図書館なので蔵書はそれほど多くなく、また、新刊も続々と入るわけではないようです。ですが意外にいい本があったりする。有名な作家に限らず、いい小説にあたることもしばしばです。本はおもしろい。私など濫読の極みですが、それでもいい本は本当にいい。

昨日も図書館で何冊か借りたのですが、さすがに現在は繁忙期でゆっくり小説を読んでいる余裕がないため、実用的なものに目がいきました。その中で、天然酵母パンに関する本を2冊借りてきました。ちょっと面白かったので、そのことについて書いてみます。

2冊の本は両方とも自然の素材から酵母を起こし、パンを作る楽しさを人に知らせるために作られた本です。どちらも著者は女性、自宅でパンの教室を開いているようです。
1冊、仮にAとしましょう、こちらはパルコ出版。
もう1冊、仮にBとしましょう、こちらは自然食通信社。
何となく匂ってきました。私だけか、まだ。
Aは、徹底的にパン作りに焦点を絞り込んでいます。子どもがパンを持っている写真などはカットとして数点挿入されていますが、著者本人は最後の略歴欄に小さいカットがあるだけです。あとはひたすら、パン作りの手元とパンの写真だけ。オーソドックスな作りで、好感が持てます。著者の語り口もごく普通なものです。
さて、面白いと思ったのは、Bです。こちらは表紙からしてすでに著者がばっちり写り込んでいるパン教室の風景です。中身では、パンの写真はカラーです(点数は少ないな)が、そのほかに著者本人または教室風景などの様々なカットがモノクロでばんばん挿入されてきます。なるほど、こちらはパンもさることながら、著者本人を売りにしているのだな、とわかります。

別にこれだけなら、へぇー、と思うだけなのですが、面白いのはこのBの著者の語り口です。ちょっと引用してみますね。

「好きでやっていることに、正しいも健康もあるものかーっ! 好きなものなら正しくなくても、不健康でも、やりたいものだ。好きな男と身体を重ね合わせると嬉しいだろ。それと同じだっ! 尻の穴がこそばゆくなるような質問をするな」

パン作りの本とはとても思えない内容ですね。非常におもしろい。
もう一個所、引用させてください。

「(前略)種はまださほど安定した強い発酵力を具えてはいないでしょうから、時間はかかると思います。(その時間が何時間なのか、などと私に聞かないでください。聞きたければ、あなたのパン生地に聞いてください。私は人間なのであり、あなたに仕込まれたパン生地ではないのですから)

ははは、前半はパンの話だけど、後半は何だかけんか腰に思えませんか? 
私はこの部分ではっきりと違和感を覚え、これ以降を読み進める力をいったん失いました。

私はこの著者を知りません。この人が何者であるか、見たことも聞いたこともない人間にとって、ここまで脱線されると厳しい・・・・・・、と思います。それが本読みとしての私のものさしです。もしかするとこの人はある意味カリスマ的な存在であるのかもしれません。自然食というくくりの中で。だとすれば、そういう人であれば、こういう語り口もまた(おもしろい)(楽しい)(くだけた)(おきゃんな)、というような形容詞で許容されるのかもしれませんね。
でも、このような実用書で、ここまでの脱線を許すというのは、私の常識の範囲ではありえません。

文章を面白くするために、ある程度書きなれた書き手はわざと脱線させたり、通常は使わない言葉を使ったり、下品なことを書いてみたり、するものです。この私も、書きなれたなどと自分で言うのはおこがましいけれど、笑わせようと意図して上記のようなことをすることはよくあります。自虐ネタも好んで使います。
そのときに大切なのは、アクセルとブレーキの按配でしょうね。アクセルを踏んでもいい、踏んでもいいが、その後で確実にブレーキをかけるべきなんです。アクセルで加速した分は確実にブレーキで元に戻さないと、読み手にはどこかしら違和感が残るものです。文章でブレーキがかけられないのなら、アクセルは踏み込んではだめ、せいぜいが制限時速プラス10キロくらいに止めて、ゆるやかにアクセルを戻すべきです。先に引用した2つの文章は、明らかにアクセルの踏みすぎ、と私は思います。

因みに、引用の後者をもし私がリライトするなら、このようにします。

「その時間が何時間なのか、などと私に聞かないでください。それはあなたのパン生地にしかわからないことなのですから」

これだったら、私なら何の違和感も持たないと思います。もちろん、感じ方は人それぞれですから、「いぃや、お前の物言いのほうがムカツクわ」と思う人もいるかもしれませんね。それは、えー・・・・・・、そのときは勉強しなおさせてもらいますw

本というものは、実に実におもしろい。パン作りの本で、こんなに楽しめるとは思いませんでした。
文は人なり、とよく言います。小説ではなく、このBのような著者本人をまるごとまな板に乗っけるような本では、まさに、文は人、なのだとよくわかります。

本日、この記事が、借りてきた猫のそれのようにおとなしいのは、そんなわけなのであり
ます。文は人、文は人、気をつけよう・・・・・・!

本日のこの2冊については、批判めいたことを書いてしまいましたので、正しくは出典を明記すべきところではありましょうが、タイトル、著者名とも伏せておきます。

明日も雷雨の可能性があるらしく、なかなか夏らしい天気にはなりませんね。少し湿度が下がるといいのですが。ではまた

あ、それと、イノシシがまた来襲し、カボチャは完全にダメになってしまいました・・・・・・

2件のコメント

  1. なんだか今回はとても耳が痛く、かつとても勉強させていただきました。ある作家さんがブログ本に抵抗を感じる理由というのを究明していましたが、「妙にはしゃいでいる」文章に抵抗があるのだと結論していました。間に人(編集者)が入っていないことがその原因であるのでは、と。またその作家さん、本を出すことは「裸で街中を歩いているのと一緒」と。これはきっと「文は人」という同じ意味の違う表現ですね。そのBの本は自費出版なのでしょうか?
    かぼちゃ、残念でしたね。♪あきらめました、と昔よく歌いました。みゆきさんの提供曲ですよね。歌うは研ナオコさんでしたでしょうか。
    今日も早起きして子供と遊んできます。

  2. 「妙にはしゃいでいる」・・・・・・! 私も耳が痛いです。しょっちゅうやってます。特に最初のタイ越冬の時がすごかった、穴があったら入りたい。
    そのパンの本ですが、自費ではないと思うのです。だからこそ、引っかかったのですよね。これがブログであったり、明らかな自費出版本であれば、私もそうは突っ込まないのですが、当然編集者が噛んでいるだろうと思うが故に、ブレーキをかけてあげてもよかったのじゃないか、これはこれでウリなのかな、などと考えてしまったわけで。
    かもめはかもめ、こればっかりは、研ナオコがうますぎましたw
    ディズニーランドですか? その行事はもう終わった? 夏休みですねー・・・・・・。

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